2020年9月27日 聖霊降臨後第17主日礼拝説教より (於:大阪城南キリスト教会)
(マタイによる福音書 第21章28節~32節)
主イエスの時代、徴税人も娼婦も「地の民」と呼ばれ、神の救いから外れていると見なされていました。なぜ神の救いから外れているのか。それは、彼らが律法を守らないからであり、律法を守らない・守ることができないのは、彼ら自身に問題があると考えられていました。今の言葉で言えば「自己責任」だったわけです。もちろん当時はその考え方が当たり前だったわけですが、現在の視点から見れば不寛容だと感じます。
しかし、主イエスは言います。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。神の国は疎外された人たちにこそ開かれていると。神の救いから外れていると見なされていた人を、神は愛してくださっているのだと。
今回のコロナ禍によって、私たちの社会の脆弱性が露わになったとよく言われます。学校が一斉に休校になった時は、学校給食で必要な栄養を取らざるを得ない子どもが多数いることや、仕事のため子どもを預ける場所がどうしても必要な親御さんが多いことなどが報道されるようになりました。最近では、特に飲食業で働いていた方が、「失業して貯金も特別給付金もなくなって、生活保護を申請して受理されたが、保護費が出るまでしのぐのが難しい」と相談に訪れる方が増えてきました。
このような状況に置かれた人に対して、それは自己責任である、と断じる声があります。しかし、一人一人に目を向けると、自分の力だけではどうしても避けられない、越えられない困難や事情があるわけです。
私たちも人生を振り返ると、困難に直面した時、自分の力だけではどうしようもなかったな、と感じることがあったと思います。しかし、誰かが力添えしてくれたことで、また偶然が重なってその困難を乗り越えることができた。そのような経験があると思います。それを私たちは「主の導き」や「主のみ守り」と表現します。
そして今日、私たちは思い出すように促されています。私たちもまた、主の働きのために召されているということを。私たちもまた、誰かが困難を乗り越えるための一助として用いられる存在です。だからこそ、十人いれば十通りの事情があることを想像すると、「主イエスの眼差し」を持ちたいと思います。それは、言い換えれば、私自身が主に愛されている、大切にされているということを再認識することでもあります。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年9月20日 聖霊降臨後第16主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第20章1節~16節)
今日の福音書箇所は、主イエスがお話になった譬えです。ぶどう園の主人が、夜明け、9時、12時、午後3時、午後5時と5回、自分のぶどう園で働く人を雇いに行きます。主人が広場に行くと、「何もしないで」立っている人、つまり仕事にあぶれた人々がいました。主人はその人に声をかけます。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と。それが、夕方まで続いたわけです。
労働が終わり、労働者たちはその日の給金を係から受け取ります。最後に主人が雇った人々、つまり午後5時に雇われた人は、係から当時の日給に相当する1デナリオンを受け取りました。そして最初に雇われた人々、つまり夜明けに雇われて、ぶどう園で一番長く働いた人々も給金は同じ1デナリオンでした。この人々は主人に不平を漏らします。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。丸一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中と同じ扱いにするとは」。
この人々の言い分はもっともです。午後5時に雇われた人々はほとんど働くこともなく日当を受け取ったことでしょう。もっともなのですが、私たちは午後5時に雇われた人々の視点からこの譬えを見る必要があります。なぜなら、その視点こそ主イエスがいつも大切にされている視点だからです。
午後5時に雇われた人々は、広場に立っている理由を問うた主人に対して、このように答えていました。「だれも雇ってくれないのです」。夜明けが5時頃だとすれば、彼らは12時間もその広場で自分たちを雇ってくれる手配師を待っていたのです。12時間待っても雇われないということは、誰の目にも、「彼らは労働力にならないだろう」と映っていたのでしょう。
しかし、ぶどう園の主人は自分たちを雇ってくれた。そして、一日の生活費として十分な日当を支給してくれた。どれほどの喜びだったでしょう。もしかしたら、日当を受け取ったことよりも、自分たちに「ぶどう園で働きなさい」と声をかけてくれたことに大きな喜びを感じたかもしれません。
神さまが大切にされることは、私たちが何か特別なことができるかどうか、ではありません。ぶどう園の譬えのように、あなたがそこに存在するから、声をかけてくれるのです。命の長短はありますし、そのことで私たちは悲しみに沈むこともあります。しかし、私たち自身が、与えられた命に真摯に向き合うことは、神さまに真摯に向き合うことです。神さまはそのことを用いてください。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年9月13日 聖霊降臨後第15主日礼拝説教より (於:聖ガブリエル教会)
(マタイによる福音書 第18章21節~35節)
「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(21節、22節)
たとえ話には、王と家来と家来の仲間が登場します。家来が王にしていた借金が一万タラントンとあります。そして家来が仲間に貸していた金額が百デナリオン。一デナリオンは当時の日当です。そして一タラントンは六千デナリオン。つまり、一万デナリオンは六千万デナリオンです。日当を単純に一万円とした場合、一万タラントンは六千億円ということになります。この家来がどのような身分だったかは記されていませんが、普通に生活していて借金することなど不可能な額です。一方、この家来が仲間に貸していた額は百デナリオン。単純計算で百万円ほどでした。これも十分な大金ですが、六千億円に比べれば、少額と言えてしまう額です。
私たちと神さまの関係も、この家来と王との関係と同じだ。そのように主イエスは、たとえ話を通して私たちに言います。私たちは神さまに対して莫大な負債がある。しかし神さまは、私たちに憐れみを感じて、ただそれだけの理由で赦してくださる。支払いを延期するのではなく、「帳消し」にしてくださった。それが私たちと神さまとの関係なのだと、主イエスは言います。そうであれば、赦しを乞う仲間、信仰を共にする兄弟姉妹、神さまへ多額の負債を持つ者同士が赦しあうのは当然ではないか、と主イエスは問いかけます。
たとえを見ますと、王が借金を返済できない家来に対して、当初求めていたことは、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済する」ことでした。「財産、家族、自分自身も身売りをして返済しろ」と王は家来に言い迫っていたのです。家族はそれぞれが異なる場所へ奴隷に出され、一家離散していたことでしょう。王と家来の関係もそこでお終いです。しかし、泣きすがる家来の姿に心を揺さぶられた王が、借金を帳消しにしたことで、この家来は再度自分の人生を歩むことができました。新しい歩みを始められたのです。王との関係も新しくされました。「赦し」は悔い改める人が、神さまとともに歩む道へと促す行為と言えます。
主イエスが大切にされた「赦し」は、私たちに新しい歩みと交わりの回復をもたらします。それは、神さまと私たちの関係です。そして、私たちが求められているものです。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年9月6日 聖霊降臨後第14主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第18章19節~20節)
19 「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」
20 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
使徒書の日課、ローマの信徒への手紙にこのような一文がありました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」これは、しばしば共感(コンパッション)と言われます。そして、確かに主日の教会でしばしば見られる光景です。信徒同士が、近況を報告し合う中で、共に喜び、共に悲しむという行為は、自分が今持っている感情を一旦脇に置いて、相手の感情に寄り添うことです。もしかしたら、今行っている行為も一旦脇に置く必要があるかもしれません。自分の感情、そして行為を一時中断して、共に喜び、共に悲しむことができるのです。そして共感の後、また自分の行為が再開します。ですから、共感する毎に、自分の行為は分断されます。
主イエスはいつもご自分の行動を一旦脇に置いてから、ご自分に話しかける人の声を聞きます。三週間前に読んだ、サマリアの女性の物語でもそうでした。旅をしていたその足を止めて、旅を一旦中断して、女性の話に耳を傾けました。そして、彼女の心に寄り添ったのです。彼女に寄り添った後、主の旅は続きます。主イエスの旅は確かに寄り添う都度分断されるのです。
教会の信徒同士の交わりはもちろん大切です。私たちの行為が、共感と寄り添いによって中断された後、私たちは互いが主の恵みを受けていることに気づきます。心が癒されていることに気づきます。寄り添った者と寄り添われた者が互いに一致して、歩みを再開するのです。それに加えて、私たちの交わりの外にも目を向けたいと思います。いつもの教会の日常が一時の分断を経験するとき、私たちが願い求めること=使命の一致がもたらされるのではないでしょうか。
私たちの教会の使命は何であるか。共に祈り求めながら、この主日を、そして一週間を過ごしましょう。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。今ここに、主は共におられ、私たちと共に祈ってくださいます。そして私たちが憶えて祈る人と共におられます。
(司祭ヨハネ古澤)