2018年1月28 日 「キリストを想う」
(マルコによる福音書 第1章21節~28節、コリントの信徒への手紙一 第8章1b節~13節)
とても意外なことですが、イエスが神の子であることを最初に指摘したのは汚れた霊でした。私たちが神さまに向き直ることができるよう、イエスが真っ向から悪霊に挑んでくださることを私たちは目の当たりにします。
私たちは元気に忙しく生活をしていると神さまは無用と感じることがあります。しかし、新しい環境や緊張の続く忙しい時間を過ごし続けていると、私たちの心は少しずつ弱ってきます。そして、汚れた霊が私たちと神さまとの交わりを断とうと働きかけてきます。キリストはそのような私たちが、何とかもう一度神さまとの正しい関係を持つことが出来るよう働いてくださいます。
今日の使徒書で、パウロは偶像に供えられた肉を食べるかどうかについて議論していました。偶像の神などいない、と理解している人なら、その肉を食べることは当人とって大変なことです。そして教会の人がその肉を食べる姿を見ることも、当人のつまずきになります。それなら自分は偶像に供えられた肉は食べない、そのようにパウロは言います。パウロは偶像の神はいない、とまだ理解できない人が汚れた霊に捕らわれないよう、細心の注意を払っているわけです。教会の交わりという新しい環境で過ごす人への配慮です。これもまた、その人が神さまと正しい関係を持つことが出来るようにと、パウロを通してキリストが働いてくださっている例でしょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年1月21日 「キリストの弟子」 於:聖ガブリエル教会
(マルコによる福音書 第1章14節~20節)
すべての人にイエスが神の子であることを示された。このことを覚える顕現後の季節に入りました。
今日の箇所でイエスは四人の漁師を招きます。この漁師たちは自分の生活よりもイエスと共に歩むことを優先させました。彼らはこれからイエスの受難までずっとイエスと共に過ごします。
イエスの言う「福音を信じなさい」とは、「福音の中で信ぜよ」となるそうです。福音はイエスの言葉一つ一つであり、イエスの一挙手一投足です。イエスへ全幅の信頼を寄せること、それが福音を信じることであり、イエスの弟子になるということではないでしょうか。
卑しい職業とされていた漁師たちがイエスの一番弟子に招かれました。下から突き上げる力や、体の内部から湧き出る力といった主の働き方を感じます。私たちが体の奥底から主の愛と命を感じて欲しい。そのような主の想いを伺うことができます。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年1月14日 「主の声に応えて」
(ヨハネによる福音書 第1章43節~51節、コリントの信徒への手紙一 第6章11b節~20節)
私たちは誰もが神さまに呼びかけられています。しかしその呼びかけは、誰かの助けがないと神さまからのそれとは分からないかもしれません。信仰の道は独りで歩むには難しいようです。だからこそ、教会では共に祈り支え合います。
ナタナエルもフィリポの導きがあって、イエスが神の子であると信じられるようになりました。コリントの信徒への手紙Ⅰに「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」とありましたが、私たちは互いに導きあうことでキリストの体を形成しているのかもしれません。
そのようなキリストの体、つまり私たち一人一人のことをキリストはずっと見守ってくださいます。私たちは自分自身の体のことをどれほど把握できているでしょうか。体の表面のことは目で見ることができますから、変化があればすぐに気づくでしょう。しかし目に見えない内蔵などは、よほど症状が出ないとその変化には気づきません。キリストはどれだけ目立たない存在の人も、いえ、自分で「目立たない、自分は取るに足らない」と思っている人のことをもしっかりと把握してくださっている。そのことがナタナエルとの物語を通して示されているのではないでしょうか。
このようなキリストの呼びかけに応えていきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年1月7日 「主の声に耳を傾けて」
(マルコによる福音書 第1章7節~11節)
イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。
イエスは他の人々と同じように洗礼を受けられました。そのとき、天が裂けて霊がイエスに降ってきました。神さまが聖霊を送られたのです。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの声が聞こえます。イエスは神の子であり、神さまの想いを分かっている者なのだ、といいます。イエスが神の子であることについて、神さま自身がお墨付きをくださったのです。この声は、イエスさま姿が真っ白い姿に変化するという福音書の場面でも聞きます。その際は「これはわたしの愛する子。これに聞け」とその場にいた弟子たちに言われます。 イエスさまは神さまの想いを分かっておられます。だから、私たちはイエスを通して神の想いに、声に耳を傾けます。
私たちは祈りの中で神さまによくお願いをします。しかし、それは一方的な祈りになっていないでしょうか。神さまは様々な場面で色々な方法を用いて私たちに呼びかけてくださります。その呼びかけに耳を傾けているでしょうか。神さまの呼びかけや導きは、時に自分の想いや願いとは違ったものです。しかし、その声は私たちを生かすものです。使徒言行録で、ペトロが「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と証をする通り、神さまは分け隔て無く私たち一人一人に呼びかけてくださいます。
(司祭ヨハネ古澤)