2018年3月25日 復活前主日礼拝説教より 「十字架とわたしたち」
(マルコによる福音書 第14章32節~第15章47節)
イエスが背負われたものは様々だったでしょうが、その一つは私たち人間の苦しみではなかったかと思うのです。福音書を読んでいますと、イエスの活動は常に病気の人、貧しい人、障がいのある人、差別されていた人たちを中心に行われていたことが分かります。孤独な人々の中にイエスは入っていかれました。しかし十字架の時が近づくにつれ、イエス自身が孤独になっていきます。「父よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」という十字架上での叫びは、イエスの心からの叫びだったと思います。しかし、神さまはイエスを見捨ててはいませんでした。三日後に復活させられたのです。復活したイエスは自分を見捨てた弟子たちのもとへ最初に向かいました。弟子たちを咎めるためではなく、励ますために。
イエスは神が人間になられた存在です。神さまが私たちと全く同じ人間として生きてくださいました。人間が人生を通して出会う様々な喜びだけでなく、苦しみや悲しみを見てまた経験され、最後には完全な孤独と死を経験されました。そこには、どこか高みから私たちを見下ろす神ではなく、私たちのすぐそばにいて見守ってくださる暖かい神のイメージがあります。
「受難」という言葉は英語では「パッション」です。そこに「共に」という接頭辞である"com"を付けると「コンパッション」、つまり「共感」という言葉になります。人は誰かの痛みや悩みを本当に分かち合うためには、よほど豊かな感性を持つか、または同じような経験をしていないと本当の共感は難しい。神は私たちと喜びだけでなく、痛みをも共にするために、そして私たちの痛みを「わかるよ」と心から共感するために人になられたのではないか、と思うのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年3月18日 大斎節第5主日礼拝説教より 「一粒の麦として」 於:聖ガブリエル教会
(ヨハネによる福音書 第12章20節~33節)
福音書の中でも最も不思議な物語はイエスさまの受難と復活の物語です。不思議な物語であると同時に、私たちクリスチャンにとって、なくてはならない出来事であり、私たちの信仰の中心でもあります。今日のイエスさまの語る言葉は、その受難が持つ意味を、言い換えればイエスさまがなぜ十字架にかけられたのか、について触れています。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままだが、死ねば多くの実を結ぶ」とイエスは言います。多くの実を結ぶために私は十字架にかかるのだ、と言います。その言葉通り、一粒の麦は私たちのところにまで実りをもたらしました。
実りとはその人の人生の転換と言えるでしょう。イエスが捕らえられ、十字架にかけられたとき、弟子たちは全員逃げてしまいました。しかし、復活されたイエスは真っ先に弟子たちのもとへ向かい励ましました。弟子たちはその後、福音を宣べ伝えます。迫害に遭い、多くの弟子たちが命を失っていきますが、その一人一人は死を恐れなかった。それは言い換えれば自分の人生の肯定です。迫害というとても厳しい状況に遭ってなお、自分は生まれて来て良かったと思うわけです。キリストの復活に直面した弟子たちはそれほどに人生を変えられたのでした。
私たちもキリストによって人生を変えられた存在です。同時に誰かの人生に深く関わる存在でもあります。地に落ちてもなお誰かの人生に影響を与える、そのような存在として神さまは人をお造りになったのでした。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年3月11日 大斎節第4主日礼拝説教より 「生かされる私たち」
(ヨハネによる福音書 第6章4節~15節)
ペトロの兄弟アンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と落胆するくらい、その場にいる人の数に比べてほんの少しの食べ物しかありませんでした。しかし、人間の目には「何の役にも立たない」と映るものでも、イエスさまからすれば十分な食料だったようです。人々は満腹して生きることができました。そして皆が食べ終わると、イエスさまは弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と命じて食べ残しのパンを集めさせます。十二の籠一杯になったと記されていますね。イエスさまは「少しも無駄にならないように」と言いますが、この言葉は直訳すると「何も失われないように」とか「何も滅びないように」となります。弟子たちが、地面に落ちた食べ残しのパンを一生懸命かき集めている姿を想像してみてください。私たちが何とかして福音を多くの人に伝えようと四苦八苦している姿と重なりませんか。これもまた、この奇跡物語が示すメッセージでしょう。
そして何より、たった五つのパンと二匹の魚で多くの人が養われたということ。イエスさまは十字架に架けられたとき、人々から「他人を救ったのだ。自分を救ってみろ」と嘲笑されました。「こんな奴に何ができるか」「こんな奴が救い主なわけがあるか」と多くの人が馬鹿にしていました。しかし、そのイエスさまが復活され本当に世界中の人を救いに導いたのでした。たった五つのパン。あってもなくても同じように見える存在。それはイエスさま自身を表しています。イエスさまはご自身の体を裂いて私たちを養ってくださっているのだということ。今日の奇跡物語が示す最も大切なメッセージではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年3月4日 大斎節第3主日礼拝説教より 「主のご復活と私たち」
(マルコによる福音書 第2章13節~22節)
本日の福音書箇所は、弟子たちの回想録として読むことができます。神殿境内での商売は参拝者にとっても必要なものでした。しかし、イエスは神の子であるがゆえ、ご自分の父を思う熱心さのゆえにそれを許すことができなかったようです。そのようなイエスの姿を弟子たちは思い出しました。その姿は正に詩編69編で歌われている姿でした。
では、弟子たちは何をきっかけにこれらのことを思い出したのでしょうか。ただ雑談をする中で思い出したのでしょうか。福音書には「イエスが死者の中から復活されたとき」と記されています。弟子たちは、イエスが復活されたとき、イエスが「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」と言ったことがこの復活のことであることに気がつきました。思い出したことがらは、イエスが神殿の境内で「暴れている」光景とイエスの一言でしたが、その思い出が復活の出来事によって新しい意味を持ったのです。
新しくされたこの思い出は、弟子たちが新たな一歩を踏み出す力となりました。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」とありました。弟子たちは、復活の出来事を通して今までの経験が新しくされ、イエスの言葉をそして聖書が語ることを信じるに至ったのでした。
キリストの復活は私たちにとってこのような出来事ではないでしょうか。私たちが経験したこと、聖書から学んだこと、様々な知識。それらが復活の出来事を通して新しい意味を持ちます。それは私たちを真に生かすものとなります。聖愛教会での生活もただの思い出で終わらないのです。イエスの十字架と復活を通して、私たちの歩みの力へとされる。この喜びを分かち合い、そして伝えて行きましょう。
(司祭ヨハネ古澤)