2024年3月31日 復活日主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 第16章1~8節)
今日の福音書は唐突に物語が終わりました。主イエスの墓を見に行った女性たちが、白い衣を着た若者から「驚くことはない。十字架につけられたナザレの主イエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」と言われ、その通りお墓は空だった。女性たちはその若者から主イエスの弟子ペトロへの伝言を託されますが、恐ろしさのあまり主イエスの復活を弟子たちに話せませんでした。そこで物語は終わります。聖書をくってみると、まだ続きがあるのですが、それは後々に付け加えられたものだと言われています。
女性たちは神さまの働きに直面した恐怖を感じたのでしょう。人はいのちに触れるとき、喜びだけなく怖さや不安も感じます。お母さんのお腹に赤ちゃんが宿ったとき、喜びと一緒にちゃんといのちが育つかと不安や恐怖がよぎります。いのちが失われたとき(それが人であれ動物であれ)、悲しみと一緒にやはり恐れを感じます。私たちはいのちに触れる時、喜びや悲しみと一緒に恐れが生まれます。女性たちが恐怖したのは大きないのちに触れたからかもしれません。
しかし、女性たちがずっと黙っていたわけではありません。もし女性たちが黙り続けていれば、教会はできなかったでしょう。女性たちはその後語ることができるようになっていきます。女性たちもまた復活を経験したのです。それは復活された主イエスがずっと一緒におられたからでしょう。クリスマスのページェントを思い返してください。主イエスは「インマヌエルと呼ばれる」方でした。神共にいます、という意味です。キリストは私たちといつも共にいてくださいます。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉗
先日、家族で「ドラえもん のび太の地球交響楽」という映画を観にいきました。毎年春休みに上映されるドラえもんシリーズです。今年のテーマは楽器・演奏のようで、のび太君たちが学校の発表会で演奏するためにリコーダーの練習をしています。しかし、いつものようにのび太君はうまく音を出すことができません。「の」の音、などと揶揄されるくらい奇妙な音を出してしまいジャイアンから怒られてしまいます。しかし、「下手くそな」「の」の音が大切な役割を果たします。
物語が進むと、のび太くんたちはそれぞれが楽器を手にします。そして自分の楽器がうまく弾けるようになると、皆が自分の腕前を披露しようと懸命に演奏しますが、聞く人の心を動かすことができません。しかし皆が「の」の音を出すのび太君に合わせて演奏するとき、バラバラだった演奏は一つの曲へと変わっていきます。調和を意味するシンフォニーが生まれます。 このことは、今回の映画が持つメッセージの一つではないかと感じます。調和が生まれるのは皆が上手く演奏する時に起こるのではなく、互いが相手に心を寄せる時でした。演奏の邪魔にしかならないとジャイアンたちが感じていた「の」の音。しかし、その「の」の音に心を寄せて演奏するとき、その演奏は素敵な交響楽へと姿を変えました。私たちが取るに足らないと感じているものがもしあれば、そのことこそが私たちの生にとって大切なことかもしれません。
二つの言葉を想い起こします。一つはマルコによる福音書第12章10節、11節「『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」。もう一つは、ローワン ウイリアムズ主教の「聖歌隊の指揮者の最も大切な仕事は、音のずれている聖歌隊員の音程を正すことではなく、この聖歌隊にはあなたの存在が欠かせないのですよ、と伝えることです」との言葉。私たちの共同体が大切にしたいことがらです。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉖
去る2月15日にプール高校の卒業礼拝がありました。私は出席できなかったのですが、出席された方から卒業礼拝の様子を少し教えて頂きました。ここ数年は生野区長も出席されているそうで、しかも今年は真っ白なスーツ、靴も真っ白だったそうです。今の生野区長、筋原章博さんはスリムな方ですから真っ白なスーツもよくお似合いだったそうですが、中々白いスーツを着るのは勇気がいりますよね。聞くところによると、筋原さんは元歌手だったそうです。他のお祝いの席でも白いスーツを着た筋原さんが目撃されています。
昨年(2023年)の5月、御幸森小学校跡地に生野パークがグランドオープンしました。多文化共生と多世代交流と学びの「機会の場」がテーマです。一昨年の10月に「いくの多文化クロッシングフェス2022」というプレオープンイベントがあり、そこに筋原区長も出演され、ステージでラップを披露されました。御幸森の町会長さんがラップの歌詞(リリック)を書いて、区長が呼びかけて生野区在住の若手ラッパー(鼎埜(かなや)商店のviteさん)に曲を付けてもらった。それをプレオープンで歌ったのでした。歌い終わった筋原区長は「多文化共生ですんで、伝統文化も、若者のラップ文化も、盛り上げていきたいと思います。昨日の夜にラップ指導受けてました。彼に服も選んでもらいました」とのこと。曲を書いたviteさんは「マジで俺ら、ヒップホップと生野、全部ぶち上げようと思ってやってるんで。俺らこの地域にもっと協力していきたいと思ってるんで。よろしくお願いします」。ラッパーと区長。なかなか一堂に会することはないと思います。異なる存在です。でも、双方が同じ夢をみている。多文化、多世代共生。ここにも小さな神の国の先取りがあります。(司祭古澤)
*生野パークの出来事は、難民支援協会のウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」2023年7月11日の記事より。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年3月10日 大斎節第4主日 礼拝説教要旨
(ヨハネによる福音書 第6章4~15節)
ガリラヤ湖を舟で渡る主イエスの後を、多くの群衆が追いかけます。主イエスが病人を癒やされる、その光景を目の当たりにしたからです。対岸に辿り着いた主イエスの許へ、多くの群衆がやってきます。主イエスは彼ら全員と面識があったのでしょうか。もしかしたら初めて見た顔の方が多かったかもしれません。しかし主イエスにとって、ご自分の許へ来る人びとのうち、誰が知っている人物か知らない人物かは重要なことではありませんでした。主イエスは言います、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。
主イエスの問いかけに対するフィリポの答えは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」、つまり「これだけ多くの人を食べさせることは不可能です」というものでした。主イエスの許へ足を運んだ人びとはそれほどに多かったのです。人びとが集まってくる様子を見るだけで、自分たちの手に負えないと感じたのです。
しかし、主イエスにとって、その人が顔なじみの人物かどうかが問題でないのと同じように、自分たちの手許にどれだけの食料があるかどうかも問題ではありませんでした。「人々を座らせなさい」と主イエスは弟子たちに命じます。弟子たちが、また人びとがどのような心持ちであったかは推測するしかありません。しかし、彼らがどのような思いであったにせよ、主イエスは「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」のでした。驚くべきことです。主イエスご自身が人びとに与えられたのです。それぞれの場に座る一人ひとりの許へ、主イエスが足を運び、パンをそして魚を届けたのです。人びとは満たされました。いのちが満たされました。喜びで満たされました。いのちのパンである主イエスご自身が私の許へ来て下さったからです。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と主イエスは言います。私たちが受けている恵みで無駄なものは少しもありません。私たちの人生の旅路は主イエスと共にあるからです。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年3月3日 大斎節第3主日 礼拝説教要旨
(ヨハネによる福音書 第2章13~22節)
「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)。主イエスはこのように述べて宣教を始めました。全ての人が神を賛美し、互いに大切にし合う、共にいる、そのような神が治める状態が近づいている。そのように宣言して宣教を始めた主イエス。その主イエスがエルサレム神殿のだだっ広い庭、異邦人の庭と呼ばれている場所で、神殿に献金をするため必要とされている両替商人や、神殿に贖罪の献げ物として献げるための家畜をうる商人たちを追いだしたのでした。エルサレムの神殿は主イエスの時代のはるか千年前から、神の家としてユダヤの人々の人生の中心であり続け、詩編84篇で歌われているように、人々に愛され、人々に恵みを受けさせる存在でした。主イエスも「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と神殿が特別な存在であることを述べています。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と主イエスは言います。福音記者ヨハネは「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」と補足をします。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と福音書は報告します。主イエスの十字架、それは神殿の仕切りが取り払われる出来事でした。そして主イエスのご復活、それは主イエスの体が神殿とされる出来事でした。そこには区切りがありませんでした。異邦人の庭も、女の庭も男の庭もない。異邦人が閉め出されることも、女性が足止めされることもない。そのような新しい神殿です。
新しい神殿は、神の招きに応える人は誰もが入ることのできる神殿です。招きに応える人は復活された主イエスと一つになります。キリストの体に連なるものとなります。キリストを着る存在になります。神の招きに応える人を遮る仕切りはありません。それがあるとすれば、それは人間の手によるものです。
(司祭ヨハネ古澤)