2019年11月24日 降臨節前主日礼拝説教より 於:大阪城南キリスト教会
(ルカによる福音書 第23章42節、エレミヤ書 第23章3節)
教会の暦では今年最後の日曜日です。最後の主日にあって、福音書は主イエスの十字架上での出来事を取り上げています。
三本の十字架には、イエスさまの他に二人の罪人が架けられていました。その一人の言葉から、二人は文字通り犯罪を犯した罪人であることが分かります。
罪人の一人が言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」と。罪人のこの言葉は、イエスさまによって聴き届けられました。驚きの出来事です。しかも、罪人の願い以上のことが起こるとイエスさまは言います。この罪人はパラダイスに置かれるのです。つまり、神の国へ入ることが約束されたのでした。
イエスさまは、お生まれになってから何を大切にされてきたでしょうか。この罪人とのやり取りから思い返します。そして、今日の旧約聖書の一節が浮かび上がります。「このわたしが、群れの残った羊を追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる」。
イエスさまもそうでした。「私が来たのは、罪人を集めるためである」のです。
「罪人」という言葉には、犯罪者の他にも「当時の考え方から罪人と見做されていた人」が多く含まれています。病人や障がい者、特定の職業に就く人もそうでした。その一人ひとりの所にイエスさまは赴きました。そしてイエスさまは、犯罪者としての罪人の所へも来られました。今日の十字架での出来事をこのように見ることも許されるでしょう。
何よりも、イエスさまは私たちをも集めるために来られました。全ての人を招くためにこの世へ来られたイエスさま。その働きの一端を私たちは担っています。
イエスさまは一人ひとりの声を聴きます。祈りを聴かれます。私たちは自分の声を聴いてもらうほかに、他者の声を聴くことも求められています。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年11月17日 聖霊降臨後第23主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第21章5節~19節)
本日の福音書では、イエスさまは終末について語っています。終末とは、今の世界が終わり新しい世界が始まる時のことです。それは神さまが治める世界であり、全ての生物が平和に生きる世界です。
聖書が語る平和とは戦争が無い・争いの無い状態だけを指すものではありません。自分の生に意味があることを、人はもちろん全ての生物が肯定できる状態です。
イエスさまは、その新しい世界が始まる直前のことを説明しています。人間の目には大きな混乱にしか映らないが、それが新しい世界が始まる直前のときかもしれないと言います。一言で言えば、「神の計画は人間にはわからにという」ことでもあるでしょう。
新約聖書はギリシア語で書かれており、ギリシア語には二種類の時間を表す言葉があります。一つは人間が用いる暦上の時間「クロノス」、もう一つは神の時間「カイロス」です。カイロスは人間にはわからない。だから人は祈り、神さまに問いかけます。そしてイエスさまは様々な場面で「常に備えよ」と仰います。
しかし、イエスさまはまた備えは必要だが、怯えながら暮らさないようにとも言います。人が用意できない必要な物は神さまが用意してくださると。人は自分ができる備えをしなさい、と言います。
イエスさまの言う備えとは、神さまのみ心にそって生きることでしょう。しかし、神さまの計画、想いはわからない。だから祈り、聖書を読み、行動します。それが無駄に終わったと感じることもあるかもしれません。でも、最終的に私たちが自力で用意できなものは神さまが用意して下さる。そのことを信じ、私たちは主の平和に向けて備えをしていきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年11月10日 聖霊降臨後第22主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(ルカによる福音書 第20章27節~38節)
「復活」という言葉を聞くと、どのようなイメージを持つでしょうか。戦いもののアニメを見ている子どもなら、死んだはずのキャラクターが生き返って、今までと同じように活躍している場面を想像するかもしれません。復活を否定するサドカイ派の人々も、復活とはそのようなことだと考えていたのでしょう。
しかし、イエスさまは「死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は」、この世の習慣や風習から解放されて「天使に等しい者」になると言います。私たちは誰もが人生の旅路を終えて死にますが、死は終わりではなくその後の生があり天使に等しい存在とされるのです。
復活は初代教会から信仰の基でした。それは死が終わりではないことに、人々が大きな希望を抱いたからでしょう。死が終わりではないからこそ、私たちは今を力強く生きることができます。そしてまた、わたしたちは日常の中でも復活を経験しています。ある司祭はそれを「小さな復活」と表現しました。
ある方は、長い闘病生活の中で初めて自分の死を意識するようになりました。死の恐怖から逃れるために何人かの友人に電話をかけますが、事情を知らない友人は何度もかかってくる電話に辟易し、疎遠になっていきます。そのような中、ある牧師が一年程お見舞いに来ることになりました。世間話をしていたそうですが、その牧師を通して復活の出来事も知ったのでしょう。その方は自分の人生を肯定し、「生まれてきてよかった」と言葉にしました。その一ヵ月後、天に召されました。
死への恐怖を持ちながらも、自分の生に意味を見いだしたその方は、「小さな復活」を経験しました。神さまから与えられた命をしっかりと見つめ、前進することができたのです。今は神さまの許で生きていらっしゃることでしょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年11月3日 聖霊降臨後第21主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第19章1節~10節)
ザアカイはイエスさまを一目見るために最大限の努力をしました。しかし、最終的な恵みは先方からやってきました。イエスさまがザアカイを見つけてくれたのです。まさに「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだのだ。」です。
ザアカイは自分をよく知っていました。いえ、知ろうとしていたのかもしれません。自分の生き方は何か違うな、何か足りないな、と感じていたのではないでしょうか。だから、イエスさまに賭けようとした。自分の力で足りない何かを探そうとしました。しかし、最後の大事な事柄・恵みという賜物、一番ザアカイが欲していたものは、イエスさまから与えられたのでした。実に象徴的な出来事です。
今日、私たちは特祷で「常に力を尽くしてみ跡を踏むことができますように」と祈りました。私たちがおりに触れて願っていることです。ザアカイの願いでもありました。しかし、それには神から与えられるものが必要です。今日の特祷でも祈りました。「どうか深く感謝してその計り知れない恵みを受け」と。この恵みがあってこそ、み跡を踏むことができます。
しかしです。今日のザアカイが教えてくれたのは、その恵みは既に私たちに向けられているということでした。イエスさまは私たち一人一人を既に見て下さっている。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と私たち一人一人に招きを乞うておられます。そしてキリストを受け入れるそのとき、私たちはみ跡を踏んで生きて行くのです。
それは、自分のことをよく知るという生き方です。自分が与えられている強さも、弱さも全てを知り、弱さですら恵みとして生かすことができる。必要な時は他者を助け、必要であれば他者に助けを求める。それが、み跡を踏むという生き方の一つの側面ではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)