2021年4月25日 復活節第4主日礼拝説教より
(ヨハネ による福音書 第10章11節~16節)
今日の主日の旧約聖書はエゼキエル書 34 章1~10節 が読まれます。「主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか・・・・」 イスラエルの牧 者たちは、自分のことばかり考えて、民を養っていないと、神さまはお怒りなのです。 しかし、今日は読まれないのですが、先を読んでいくと、「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは、自ら自分の群れを 探し出し、彼らの世話をする。」( 34章11節)。もう 黙ってはおれない、もう見ちゃおれない 、もうほっとけない ので、神さま自らが乗り出してくださるというのです。この エゼキエルの預言が実現するのが、主イエスの出来事です。
良い羊飼い主イエス・キリストの出現です。良くない羊飼いは、どうなのでしょうか 。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」 時折 ご紹介する山浦玄嗣先生の「ガリラヤのイエシュ―」では、「羊のことなどどうでもいいのだ。」と訳しておられます。 「心にかけていない」「どうでもいい」 冷たい言葉です。
良き羊飼いにとって、一匹一匹の羊は「どうでもいい」存在ではなく、かけがえのない大切な一匹一匹です。一匹の羊を守るためには、命を捨てる覚悟が羊飼いにはあります。 それほど愛しているのです。 この羊飼いは主イエスです。そして一匹一匹の羊は、わたしたち一人ひとりです。特に、飼う者がいなくて弱り果てている一人一人に、この世にあって「どうでもいい」とされている人々に、良き羊飼い主イエスは、「あなたはどうでもいい存在ではありません 。かけがえのない大切な存在です。」と語りかけておられます。 わたしたちのために命をささげてくださった主イエスの十字架の出来事は、こ のことを主が身をもって指し示してくださったわけです。 あなたはどうでもいい存在ではありません。
(主教アンデレ 磯 晴久)
2021年4月18日 復活節第3主日礼拝説教より
(ヨハネ による福音書 第24章36b節~48節)
アラビア語圏の挨拶は、「アッサラーム アレークム」「あなた方に平安がありますように」です。「 平安・平和」は「サラーム」、ヘブライ語の「シャローム」です 。「平和」つまり「神さまが共におられる時」「何も欠けのないこと」を表す言葉です。
「あなた方に平安がありますように」。この挨拶でもって復活された主イエスは弟子たちの間に現れました。自分たちの故郷であるエマオへ、失意のうちに帰っていた二人の弟子、彼らが主イエスに会った、その報告を他の弟子たちが聞いていた時の出来事でした。食事をしながら仲間の報告を聞いていたいのでしょう。
弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と聖書は報告しています。中々、主イエスが復活した、という事実は他者の報告では信じることが難しいようです。そして主イエスが手足を見せてもまだしっくりこない弟子たちの姿があ ります。
そのような弟子たちに主エスは「ここに何か食べ物があるか」と尋ねます。弟子たちは焼いた魚を一切れ差し出しました。福音書には「イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」とあります。これは「イエスはそれを取って、彼らと共に食べられた」とも訳せる言葉です。主イエスは弟子たちと食事を共にしたのでした。
主イエスが弟子たちに現れてしたことは、挨拶、食事、神のご計画を伝える、この三つでした。ふと思い出します。主イエスが 12 人の弟子たちを方々の町に派遣するときのことをです。派遣する弟子たちに主イエスはこのよ うに説明しました。
「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。 」「 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。 」「 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」。主イエスが弟子たちに告げたことも、「挨拶」「食事」「神のご計画を告げる」ことでした。主イエスは、弟子たちに告げたことを、ご自身が弟子たちに行なったのでした。
それぞれの地域、それぞれの時代に派遣された主イエスの弟子たちは、主イエスの言葉、神のご計画の証人として歩んでいます。その核となる姿勢は「あなたがたに平和があるように」です。あなたと共に神がおられることを覚えて、祈り、語りかけます。
コロナ禍にあって、私たちは弟子たちのように肩を寄せ合って報告しあったり、食事を共にすることができません。しかし、恐らくは家に鍵をかけていたであろう弟子たちの只中に主イエスが来られたように、私たちの傍らで主イエスは語りかけておられます「 平和があるように」。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年4月11日 復活節第2主日礼拝説教より 於: 聖ガブリエル教会
(ヨハネ による福音書 第20章19節~24節)
イエスが十字架で死んだことを見聞きした主イエスの弟子たちは、女性たちを始め皆が悲しみに包まれていたことでしょう。絶望に近かったかもしれません。女性たちは天使から 主イエスが復活されたことを聞き、そして生前のイエスの言葉を思い出し、「あっ」と言葉にならない衝撃を受けたとのではないでしょうか。一つのきっかけで、頭の中の記憶がもの凄い勢いで浮かび上がり、整えられる瞬間があります。その時のような衝撃だったことでしょう。女性たちに重くのし掛かっていた絶望に近い悲しみは、いまや燃えるような希望へと変えられました。悲しみは 、天使のたった一言で希望へと姿を変えたのでした。
一方の弟子たちは、女性たちの証言を耳にしてもそれを信じることができませんでした。自分たちもイエスと同じように、捕らえられて殺されてしまうのではないか、と恐怖していました。そのような弟子たちの只中に、復活された 主イエスは現れてくださった。イエスは弟子 たちに「あなたがたに平和があるように」、つまり「シャローム」と告げます。「シャローム」、これは日常の挨拶のことばですが、「主の平和」を告げる言葉です。
シャロームとは「神が共に居られるとき」のことであり、「何も欠けのないこと」を云います。誰一人欠けることを、誰も失うことを良しとされない神の愛に触れていること、それがシャローム/平和です。神は誰一人忘れることはない。そのことが私たちにとって大きな恵であり平和を与えてくれます。イエスが弟子達を忘れなかった、そして私たちをも忘れなかった。この大きな主の愛を覚え、私たちも多くの人を覚えていきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年4月4日 復活日礼拝説教より
(マルコによる福音書 第16章1節~8節、使徒言行録 第10章34節~43節)
空の墓を目の当たりにして怯える女性たちに天使は言います、「行って、弟子たちとペトロに告げなさい」と。ペトロも弟子の一人ですのになぜ天使は「弟子たちとペトロに」と言うのでしょうか。それ は、ペトロが三度主イエスとの関係を否定したからでしょう。福音書 は、三度否定した後、ペトロは主イエスの言葉を思い出して泣き崩れたと記しています。深い後悔の中にあるペトロを、主イエスは忘れていない、恨んでいない、むしろ大切に想っているよ、とのメッセージでしょう。おそらく、この出来事を通してペトロは再び立ち上がることができたのでしょう。使 徒言行録には「ペトロは口を開きこう言った。『神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました』」とあります。主イエスとの関係を三度否定したペトロが、大胆に主イエスについて語るのです。自分の足で福音を告げ知らせるペトロの姿が描かれています。
墓を訪れた女性に話を戻しましょう。天使は女性たちに言付けます 。「『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」。復活された主イエスは弟子たちと主イエスの故郷であるガリラヤへ行くと言うのです。ガリラヤは主イエスが宣教を始めた地です。公生涯のほとんどを過ごされた場所です。そして弟子たちが主イエスの弟子となったスタート地点です。
福音の宣教は再び始まるのです。それは主イエスだけが行う宣教ではありません。弟子たちが自らの足で歩む宣教の旅路です。そして弟子たちが自分の力だけで行う宣教でもありません。復活された主イエスがともに歩んでくださる旅路です。その旅は今も続いています。時と場所を遙かに越えて、いまこの地でも続いています。
弟子たちの新たな物語は私たちの物語です。ペトロが主イエスの十字架と復活によって自ら歩む者として生まれ変わったように、私たちも主イエスの復活によってキリストに倣う者とされています。それは分断を生む者ではなく互いを繋げる者です。コロナによって散り散りにされた私たちが一年かけて繋がる工夫をしたように。憎しみでなく愛を大切にする存在です。争いでなく平和を愛する存在です。
復活日は主イエスと弟子たちだけの出来事ではありません。今を生きる私たち一人一人がキリストの命によって新しくされたことを覚える日でもあります。それは神が私たち一人一人を愛してくださっていることを知った日です。何の見返りもなく、ただ一方的に愛を示してくださった。だからこそ、私たちはキリストに倣う者になりました。私たちは教会の交わりを深めるとともに、社会の綻びが紡がれていくことを祈りましょう。それは福音を伝えていくことでもあります。この復活日が私たち一人一人の新しい旅立ちのときとなりますように。
(司祭ヨハネ古澤)