2018年11月25日 降臨節前主日礼拝説教より 「神の国の王」
(マルコによる福音書 第12章38節~44節)
終末について想いを巡らせることは、今をどのように生きるか、について黙想することでもあります。「終末」は世の終わりを表す言葉ですから、私たちの生きるこの世が終わる、という意味では恐ろしい言葉かもしれません。しかし、「終末」は同時に神の国の到来を表す言葉でもあります。私たちの生きるこの世が終わり、同時にそれに替って神の支配される国が始まるのです。この言葉において、終末は希望に溢れた輝かしい響きを放つ言葉なのです。
「神の国は近づいた」とイエスが宣言したように、もう神の国はそこまで迫っています。ピラトはイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。それに対してイエスは直接返答しませんが、遠回しにこう言います。「私は神の国の王である」と。そう、イエスは神の国の王でした。その王が私たちと同じ人間としてこの世にやって来られ、王が直々に私たちに神の愛について、神の国について教えて回っていたのでした。そうです、神自らが神の国を形作られています。私たち人間を愛するあまり。私たちはその働きに参与することしかできません。いえ、参与することが許されています。それは神を愛することであり、言い換えれば、隣人を自分のように愛することです。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年11月18日 聖霊降臨後第26主日礼拝説教より 「神の想いと私たちの想い」
(マルコによる福音書 第13章14節~23節)
イエスの最初のメッセージは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。そのイエスは、私たち全ての人が神に愛されていること、大切にされていることを宣べ伝えました。まさに神の平和が訪れるように。それは、神の国が訪れるようにということでした。イエスのメッセージは神の国がどのようなものであるか、を表すものでした。悲しいかな、先ほどご紹介したように、教会はそのメッセージを歪めて伝えていた時もありました。しかし、言い換えれば、それほどにイエスのメッセージは、そして神の国というものは、人々に希望を与えるものだったのです。そして、その希望とは、決して死後のことだけではなく、私たちが生きる今に関することでした。
人々に、そして何より私たちにとって大きな希望である神の国。その到来までの間、私たちはどのように生きるのでしょうか。「神の国はそこまで来ているよ。大きな希望が、喜びが、迫っているよ。あなたたちはどのように応えるの?どのように生きるの?」とキリストからの問いかけが聞こえてきます。
神は私たちを愛されました。そして、人となって私たちと同じように生きてくださった。先週もお話しましたが、私たち人間が「神さま、どうか私たちと同じように生きて、私たちのことを知ってください。」と頼みましたか?そうではなく、神が一方的に私たちのようになってくださった。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」というイエスの言葉を思い出します。主の方から、私たちの隣人になってくださったのでした。だからこそ、私たちはこの教会の暦の年末にあって、再度、自身の生を振り返ってみましょう。主は共におられます。アーメン
(司祭ヨハネ古澤)
2018年11月11日 降臨節後第25主日 子ども祝福礼拝説教より 「心の底からの愛」
(マルコによる福音書 第12章38節~44節)
人間は想像することができます。だから他の人の喜びや痛み、苦しみを察することができますし、相手の立場に立つことができます。想像できるがゆえに、恐れることがありますが、希望を持つこともできます。もし、自分の嬉しいことや、悲しいこと、苦しいことをわかってくれる人がいたら、とても幸せですよね。自分のことをわかってくれる、自分を受け入れてくれる存在というのは、私たちが生きて行く上で力強い支えとなります。
そのような私たちのことを心から愛して下さっている神さまは、私たちと同じ人間として、この世界に生まれてくださいました。神さまが人間の赤ちゃんになって生まれてきたんです。私たちと同じように色々な一日一日を過ごされました。そしてある日、私たちの誰もが神さまに愛されていることを知らせるため、旅に出られました。そして十字架にかけられ、三日目に復活されたのでした。これがイエスさまのとても簡単な物語です。
これらのことは、私たちからお願いしたことではありませんでした。神さまが、ご自分の意志で、想いで、私たちの所へ来てくださいました。神さまは、ご自分の持っておられるものを全て、私たち人間のために献げてくださいました。それは乏しい中からではなかったでしょう。多くの恵みの中から、全ての恵みを私たちのために用いてくださいました。それが良き知らせの出来事でした。私たちのことをよくご存知の方が、世の終わりまでいつでも一緒にいてくださいます。この一週間も神と人とに仕えて行きましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年11月4日 聖霊降臨後第24主日礼拝説教より 「キリストを着るということ」
今日の特祷で私たちは、「どうか深く感謝してその計り知れない恵みを受け、常に力を尽くしてみ跡を踏むことができますように」と、祈りました。自分が持っている限りの力を出し切ってでも、キリストの歩む道を自分も歩むことができますように、と祈ったわけです。キリストが歩まれた道とはなんでしょうか。それはキリストにとっては苦難の道でした。私たちが神の愛に気づいて生きて行けるようにと、ご自分が十字架にかけられる道でした。キリストは、私たちが真に生きられるように、愛の限りを尽くしてくださったのです。
そしてまた、キリストが歩まれた道は命の道でした。主が十字架で死なれたイエスを復活させられたことにより、死に打ち勝つ命を示された道でした。そしてまた、十字架への道を歩まれたイエスは、その道中において、全ての人を主は愛しておられることを示しました。
「あなたに十字架の形を記します。これはキリストのしるし、あなたが神の民に加えられ、永遠にキリストのものとなり、主の忠実な僕として、罪とこの世の悪の力に向かって戦うことを表します」と、私たちはこの一言と共に洗礼を受ける際、顔に水で十字架を記されます。パウロは、信徒がごく身近な悪と闘うために「主イエス・キリストを身にまといなさい。」と勧めています。洗礼は、今までの自分に死に、キリストと一つとなって生きて行くことを意味します。キリストを着て生きて行きます。それは、誰かの隣人となり、その人を大切にすることであり、同時に自分の全存在を用いて主を愛することです。しかし、その出発点は、主が私を愛して下さっていることを知ること。なにより、キリストが愛を尽くして私たちのために十字架にかかられたことに想いを向けることではないでしょうか。そして、復活されたイエスが、私と共に、文字通り一緒に歩んで下さることを知ることにほかなりません。
(司祭ヨハネ古澤)