2017年10月29日
先主日は松岡司祭の説教でしたが、松岡司祭への説教原稿依頼を失念していました。申し訳ありませんが、今回は私が大好きな詩をご紹介します。私たちの主がどのような方かがよく表れている詩だと思います。有名な「足跡」という詩です。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
(司祭ヨハネ古澤)
2017年10月22日「いまを生きる」 (マタイによる福音書 第22章15節~22節)
イエスを罠にかけるため、ファリサイ派の人々はイエスに質問をしました。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」。この質問は、「適っている」と答えても「適っていない」と答えても、イエスが不利になる意地の悪い質問でした。しかしイエスは、彼らの意図を見抜いて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えます。
「神のものは神に返しなさい」と聞いてファリサイ派の人々は驚きと共に困ったことでしょう。納得せざるを得ない答えですし、私たち自身も含めて、全てのものをお造りになったのは神だからです。そう、私たちも神さまに造られた存在です。「あなた、生きてらっしゃいよ」とこの世に送り出された存在です。
植松主教(北海道教区主教、首座主教)が、ある男性信徒のお話をしてくださいました。「教会に行って何か良いことあるの」との質問に主教を含めその場にいた教役者が何と答えるか悩んでいたところ、その男性は「死が怖くなくなる」と答えたそうです。「死が怖くなくなる」とは、言い換えれば自分の生を受け入れること、つまり「良いことも嫌なこともあったけど、生きていて良かった」と思えることです。これは神への最良の返答でもあります。私たちは各々の時間を人生として過ごしますが、いまこの瞬間を精一杯生き、大きな感謝を持って神さまの許へ帰る。これも「神のものを神に返す」一つの形ではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年10月15日 「さあ、恵みを受け取ろう」 於:聖ガブリエル教会 (マタイによる福音書 第22章1節~14節)
私たちはそれぞれが主から招かれている存在です。主の招きに応えたからこそ教会に連なっています。しかし、教会に連なっているから神の国に入ることができる、とは言い切れないよ、とイエスは言います。常に備えをしておきなさいよ、つまり主に目を向けていなさいよと。では主に目を向けるとはどのようなことでしょうか。そのことが今日のテーマです。
イエスの譬では、王の婚礼に礼服を着ていなかった人がおり、礼服を着ていなかったがために縛られて暗闇に掘り出されました。急に婚礼に呼ばれた人が、その準備できていないからと放り出された。一見すると理不尽な出来事です。
しかし「友よ、どうして礼服を着ないでここに入ってきたのか」という王の言葉は、このような訳もあります。「あなた、どうして婚礼の布を受け取らずに、ここへ入ったのですか」。つまり、婚礼用の礼服である布は王さまが用意しており、来客に配っていた。しかし、放り出された人はその布を受け取らなかったというのです。私たちは主から与えられた恵みや福音を、恵としてまた福音として受け取っているでしょうか。
イエスの弟子たちにとって十字架の出来事は恐怖の出来事でしかありませんでした。しかしそれは、神がご自身の愛を私たちに示された出来事でした。イエスの復活を通して弟子たちはそのことに気づいていったのです。当初は弟子たちもまた、婚礼の布を受け取れない存在でした。しかし、主は何度も布を受け取るよう促してくださいます。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年10月8日 「良いぶどうとされる」 (マタイによる福音書 第21章33節~43節、イザヤ書 第5章1節~7節)
今日のテーマは「義とされるということ」です。聖書に出てくる「正義」「義」は、「神との正しい、本来の交わりの状態」を指します。アダムとエバの物語に象徴されているように、人間と神さまの関係が歪んでしまいました。それを本来の状態へと回復したいと願う神さまは、預言者を遣わして人々に「神さまの方へと向き直りなさい」とご自身のメッセージを伝えます。しかし人々は聞く耳を持たなかった。そこで神さまは独り子であるイエスを人々と同じ姿でお送りになますが、やはり人々はその独り子を十字架にかけてしまった。
これが旧約聖書から福音書のキリストの受難までのおおまかな流れです。この流れは、しかし、今日の福音書でイエスが語ったたとえ話とよく似ています。主が送った僕たちはまさしく、神さまが送った預言者であり、独り子というのはイエスのことです。農夫たちは主人が送る独り子を殺してしまいます。イエスを殺してしまいました。十字架の出来事です。
そして復活の出来事が起きます。十字架と復活は神と人間との関係修復のために私たちに送られた出来事でもありました。ペテロに代表されるイエスの弟子たちは、自分たちがイエスを裏切りイエスが十字架に架かったことを悔いましたが、イエスは復活されました。ペテロたちはそこから再出発をしたのです。神との交わりの道を私たちは進みます。それは主が求める良いぶどうの姿です。神を愛し、隣人を愛し、自分を愛する。そのようなぶどうを目指して、今日もキリストに養われましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年10月1日 「キリストに従う道へ」 (マタイによる福音書 第21章28節~32節)
旧約聖書はイスラエルの民と神との関係が書かれています。イスラエルの民が神から離れてしまう出来事と、それを幾度も時には怒りながら、時には悲しみながら赦し続ける神の姿です。そしてその関係は、私たち人間と神の普遍的な関係とも言えるでしょう。
旧約から新約の時代に移り、洗礼者ヨハネの最初の言葉にそれが示されます。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。「神へと向き直って、イエスを主と信じなさい」ということです。ヨハネのこの言葉は、パレスチナの一点に始まり世界中に広がりました。この言葉は今も響き続けているのではないでしょうか。洗礼者ヨハネの言葉は多くの人を揺り動かしました。しかし、ヨハネが示す道は決して平坦なものではありませんでした。その道は「茨の道」と形容されるものでした。
共に茨を歩む道=キリストに従う道は、しかし、命を回復させる道です。人々が復活させられる道です。それは神の願いが根底にあるからです。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」。誰も救いからこぼれ落ちることのないよう、主は願っておられます。主の想いをしっかりと受けとめましょう。
(司祭ヨハネ古澤)