2019年2月24日
神奈川県大磯にエリザベス・サンダース・ホームという児童養護施設があります。岩崎弥太郎の孫である澤田美喜(1901~1980)によって1948年に設立された施設です。外交官である澤田廉三を夫とする美喜は、廉三がロンドン駐在時に児童養護施設ドクター・バーナードス・ホームを訪問し、同施設の働きに感銘を受け児童養護施設の必要性を深く感じていたようです。そのような澤田美喜に乳児院設立の決心をさせた出来事が、混血孤児の遺体との出会いでした。汽車の座席に座っていた美喜の膝に、紙の包みが落ちてきました。何かなと思い包みを開けてみると、そこには肌の黒い嬰児の遺体がありました。戦後、多くの地域で混血児が生まれていました。アメリカ兵の暴行によって、売春によって、また恋愛によって。しかし物資が極度に不足している状況下、生まれてきた赤ん坊たちは育てられることなく命を失うことが多かったようです。そして混血児への差別が強くありました。「戦争の落とし子」とも呼ばれた彼らの母親にならなければ、と澤田美喜は包み紙の嬰児を見て乳児院設立を決心したのでした。
そのような澤田美喜と1948年に出会ったのが報道カメラマンの影山光洋(正雄、1907~1981)でした。敗戦日の翌日、光洋は勤めていた朝日新聞社を退職し、11月には戦時中に購入していた藤沢の土地横に借地付きの家を買い引っ越します。その三ヶ月後、1946年2月に三男の賀彦さんが生まれます。しかし、食糧事情が最悪だった時代です。栄養失調気味だった賀彦さんは、1951年4月に原因不明の高熱に冒され入院、逝去するのでした。
1948年に澤田美喜が乳児院を設立して間もなく、混血児のための施設設立を知った影山光洋はエリザベス・サンダース・ホームへと向かいます。そこで澤田美喜と意気投合し、子ども達の成長の記録をライフワークとしました。次男の智洋さんは、光洋が子ども達の姿を撮り続けた理由をこのように述べています。「戦争の落とし子と呼ばれた混血児たちの成長を撮り続けたのは、孤児たちにはなんらの罪もないことを写真でアメリカや国内に呼びかける必要もあったには違いないが、園長が人づくり、海外発展という大悲願を掲げて、女手一つで立ち向かっているその態度に強く打たれたためでもあった。」
他の新聞社が、敗戦日に皇居前で割腹自殺をした軍人の姿を翌日の紙面に大きく掲載する中、光洋はどうしても敗戦日に撮影した写真を現像することができませんでした。「父は覗き見る欲望により、人間としての品格をおとしめるような写真でも発表しなければならない報道カメラマンの限界を悟ったのかもしれない」と智洋さんは語ります。そのような光洋にとって、美喜の生命を生かそうする姿はどうしても後生に残したいものだったのでしょう。
光洋が最初に撮った子ども(二歳くらい)たちは一期生の4人。彼らの姿は三年後、五年後、七年後、十年後と同じ場所で撮影されています。一期生は1948年の時点で平均二歳ですから賀彦さんと同年。三年後の写真は1951年のもので、三男賀彦さんが逝去した年です。光洋はどのような心境でこの年の写真を撮影したのでしょうか。
戦争がもたらすのはただ死のみのようです。「道であり、真理であり、命である」キリストとは正反対のもののようです。命を奪う道ではなく、命が生かされる道を模索していきたいと切に願います。
(司祭ヨハネ古澤)
2月17日の礼拝は、京都教区から教区交流として池本則子司祭がお越しになられ、お説教でご自身についてお話しくださいました。
2019年2月10日 顕現後第5主日礼拝説教より 「『わたしが・・・』ではなく」
(ルカによる福音書 第5章1節~11節)
イエスを信じたペトロたちは仕事と家族を捨ててイエスに従い、長い旅路を歩みます。そしてペトロにとって大きな出来事が旅の最後に起こりました。イエスが逮捕されて裁判が始まり、気になったペトロは裁判が行われている付近に赴きます。そして、他の野次馬からイエスと一緒にいたことを咎められたペトロは三度、イエスとの関係を否定しました。「私が言っていることが嘘であれば、私は神から罰を受ける」という呪いの言葉を口にしながらです。
自分のしたことの重大さに気づいたペトロはその場で泣き崩れます。その後ペトロは仲間と共に、家に閉じこもりました。もう自分はイエスの弟子ではなくなった、と感じたことでしょう。
しかし、そのようなペトロを復活されたイエスが訪れてくださいました。「シモン・ペトロ、私を愛しているか」、「私の羊を飼いなさい」、とイエスはペトロに告げます。そこにはペトロに対する咎めや叱責は一切ありません。心からの想いを伝えます。これは私の想像ですが、このイエスの訪問と言葉は、ペトロにとって「私がイエスの弟子になったのだ」から「イエスが私を弟子にしてくださった」へとペトロの心に変化を起こしたものではなかったでしょうか。それは、ペトロが自身の救いに気づく瞬間でもありました。
私たちと神さまとの関係、それは私が神を〇〇、ではなく、神が私を〇〇してくださる、というものです。それが私たちの人生でもあります。だからこそ、私たちは、神の器として、主と共に他者のために生きるのです。ペトロも復活されたイエスの訪問で思い出したことでしょう。初めてイエスに出会った日、「あなたは人間をとる漁師になる」と言われたことを。「あ、あの時からキリストが私を導いておられたのだ」と感じたのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年2月3日 顕現後第4主日礼拝説教より 「全てのものは主からの贈り物」
(ルカによる福音書 第4章21節~32節)
会堂での聖書朗読の後、イエスは「私が救い主である」と宣言しました。しかし、ガリラヤの人々はそのことを受け入れることができませんでした。イエスのことを昔から知っていたからかもしれません。
人々はイエスに奇跡を求めます。しかしイエスは、ご自分のために奇跡を起こされることを荒れ野における悪魔との闘いで退けていました。人々はイエスの言葉に腹を立てました。自分たちの願いが通らなかったからかもしれませんし、「自分のために」という強い思いがあったからかもしれません。
他方、キリストの思いは「自分のために」ではありませんでした。「全ての人のために」、「あなたのために」なのです。だから、神さまは私たち人間に多くの贈り物をくださいました。私たちが手にする全てのものを主から贈り物として与えられていますし、キリストは最大の贈り物でもあります。そのキリストは私たちのためにご自分を献げられたのです。
そして忘れてはならないことは、私たち自身も神さまからの贈り物だということです。私が私に、そして全ての人に、神さまから与えられた贈り物です。「神と人とに愛されるように」ですとか、「神と人に仕えるため行きましょう」という言葉を想い起す方もあるのではないでしょうか。
創世記において、神さまは全てを造られた後、このように想われます。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」。私たちは神さまの想いから造られました。だから良しとされたのです。私たちが手にする全てのものは、神さまが良しとされた贈り物です。
(司祭ヨハネ古澤)