2021年6月27日 聖霊降臨後第5主日拝説教より
(マルコによる福音書 第5章22節~24節、申命記 第15章7節~11節)
主イエスがヤイロの家に向かう途中でヤイロの娘は死んでしまいます。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」とヤイロの娘の死を確認した人びとは言いました。そのことを耳にした主イエスはヤイロに言います。
「恐れることはない。ただ 信じなさい」。これは直訳すれば「信じつづけなさい」 です。ヤイロが「主イエスなら娘を救ってくれる」とい う信頼をもっていることを主イエスは感じ取っていたの でしょう。「恐れることはない。ただ信じなさい」。「信じつづけ なさい」との主イエスの言葉は何と心強い言葉でしょう。自分の身分を取り払っても救いたい愛する娘。その 娘が息を引き取ったと知らされたヤイロにとって、「信じつづけなさい」との言葉はどれほど温かく力強く安堵する言葉だったでしょう。信じていた主イエスを信じ続 けて良いのです。身分はあるが娘を助ける力がない。しかし、主イエスに頼ってよいのだ。それが「信じつづけなさい」という言葉です。
今日の物語は「あなた一人で抱え込まなくてよいのだよ」との主イエスの温もりに満ちたメッセージです。自分の人生を自分だけの力で何とかしようとしなくて良 い。やはりどうしようもないことが起こる。他者に頼ること、それは神に頼ることでもあります。 神に頼ることを知る人、信じ続ける人は他者に手を差 し延べる人でもあります。今日の旧約日課、申命記に「『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのな いように注意しなさい」とありました。負債免除の年とは、七年ごとに土地を休ませる安息の年を指します。神 が造られた土地を休ませる。自分たちのために食物を実らせてくれる土地を思う。そして、共に生きている他者のために負債を免除する。その年を、自分の事だけを考えて貧しい同胞に貸すことを渋ってはならないと言いま す。
土地も人も神が造られたもの・存在です。自分自身もそうです。だからこそ、子どもが親を頼るように神に頼 る。それは誰かを頼ることであり、頼ることを知ることは自分が神によって作られ生かされていることを知ること、感謝を知ることです。
「信じ続けなさい」。この一言をつぶさにみれば、このようになるのかなと思います。あなたが神さまに作ら れた存在であることを想い起こしなさい。神の似姿に創られた尊い存在であることを想い起こしなさい。そし て、あの人もそうであることを。神が造られた土地から食べ物を得、神が造られた様々なものから、生活に必要なものを得ていることを想い起こしなさい。そのような 世界、動植物、人間、あなたを神は良しとされたことを想い起こしなさい。そのような神を信頼し続けなさい。
感謝と賛美の祭りを続けましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年6月20日 聖霊降臨後第4主日拝説教より
(マルコによる福音書 第4章35節~41節)
舞台はガリラヤ湖上です。ガリラヤ湖は六甲おろしのような突風が時々吹き、その風によって大きな波が起こるそうです。弟子たちが乗っている舟は小さなものだったでしょうから、いくら湖とはいえ恐ろしかったことで しょう。命の危険を感じたかもしれません。しかし、主 イエスは寝ていました。
怯える弟子たちに主イエスは言います。「なぜ怖がる のか。まだ信じないのか」。この主イエスの言葉は直訳するとこうなります。「なぜ怖がるのか。まだ信仰を持たないのか」もしくは「まだ信頼をもたないのか」。 信仰と信頼は福音書が書かれているギリシア語では同じ単語「ピスティス」です。日本語だと信仰と信頼は異 なる単語ですね。ただ、信仰の中に信頼が含まれていま す。 信頼は「ある人や物を高く評価して,すべて任せられるという気持ちをいだくこと」であり、信仰は「経験や知識を超えた存在を信頼し,自己をゆだねる自覚的な態度」です。つまり私たちキリスト者でいえば、自分をはるかに超越した目に見えない存在に信頼することが信 仰、と言えるわけです。
平たく言えば神にキリストに信頼すること、自分を委ねることです。委ねるというと、聖公会であれカトリッ クであれシスターはすごいな、と感じます。教派に関係無く、シスターと話していると必ず「あとは神さまにお 任せするの」とシスターは仰います。「あとは神さまにお任せするのよ」。とてもステキな 言葉だなと感じます。決して諦めの言葉ではありませ ん。むしろ積極的な言葉です。私たちは様々な計画を立てます。教会でもそうです。その計画が成功しそうなら実行しますが、成功する保証がないとやはり尻込みします。でも、私たちの横に鞆に枕している主がおられる。 その確信があるとき私たちは一方を踏み出せます。「あとは神さまにお任せするのよ」と言えるのではないでしょうか。
私たちの人生もそうです。私たちは自分にできることを行い人生を終えていきます。葬送式は逝去した兄弟姉妹を神さまに委ねるための礼拝です。「あとは神さまにお任せするのよ」なんです。私たちはどこにいても神さまと一緒になんです。それは十字架の出来事によって主が隔てを取り除いてくださったから。
いま私たちは弟子たちと同じように、大きな波に翻弄される船上にいます。自分がすべきこと、できることをしましょう。疲れている人は主と共に休みましょう。祈れる人は自分のために祈り、家族のため、友人のために祈り、心配している人を覚えて祈る。気持ちに余裕があ れば社会で起こっていること、代祷でいつも覚えていることのために祈り、代祷で漏れていることを覚えて祈ってください。思いつくままに言いました、できるとこまで祈ってください。あなたが祈るとき、その傍らで主が共に祈っておられます。祈りは私たちの基です。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年6月13日 聖霊降臨後第3主日拝説教より
(マルコによる福音書 第4章26節~34節、コリントの信徒への手紙二 第5章1節~10節)
私は週に一度だけ朝の礼拝に聖バルナバ病院を訪れています。ベビーカレンダーというサイトに産婦人科インタビューのコーナーがあり、2017年7月の記事に当時のバルナバ病院長が掲載されており、このような一節がありました。
「産婦人科は、生命の誕生という、うれしいことばかりだけでなく、残念ながら中絶や死産などもあります。ですので、その際には、患者さんに対して精神的なケアもじゅうぶんできるようにしています。プロの産婦人科医や助産師は、幸せな瞬間をたくさん見てきたと同時に、つらいこともたくさん見てきています。ただ、このような経験があるからこそ、幸せなできごとを心からよろこび、祝うことができるうえに、つらいできごとも応援できるんです。聖バルナバ病院のスタ ッフ全員にもそういった教育をしてきています。産科専門はここが違うのだと思っています。」 (ベビーカレンダー「産婦人科インタビュー」より、成瀬勝彦元院長)
新しい命を扱う現場には大きな喜びだけでなく深い悲 しみも起こる。患者さんだけでなく医療スタッフさんも共有する。だからこそ、患者さんは次の一歩を踏み出すことができるのだな、とインタビュー記事を読んでその ように感じていました。
私たちが突然新型コロナ感染症に脅かされて早くも一 年半が過ぎようとしています。様々な出来事が立て続けに起こっていきます。おびただし情報が流れていきます。疲れを感じている方もいらっしゃるでしょう。「ずっと家にいたので、電車に乗れるかが心配になっている」という方もいました。そのようなしんどさも、わたしたち共に覚え祈っていきたいと思います。そして教会 の交わりに加えて、私たちの社会にあるしんどさも共に覚えていきましょう。
先のインタビューでの言葉が浮かびます。「幸せな瞬間をたくさん見てきたと同時に、つらいこともたくさん見てきています。ただ、このような経験があるからこそ、幸せなできごとを心からよろこび、祝うことができるうえに、つらいできごとも応援できるんです」。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20- 21)との主イエスの言葉を思い出します。その神の国が私たちの間にあって、蒔かれた種のように私たちが知らぬ間に成長してくのは、私たちが共に泣き、共に喜び、 共に歩んでいく。そのような交わりの間でこそ起こるのではないかと感じるのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年6月6日 聖霊降臨後第2主日拝説教より
(マルコによる福音書 第3章20節~35節、創世記 第3章8節~21節)
当時のパレスチナ地方の考え方に照らして主イエスの家族の心境を想像しますと、主イエス家族の行動について「無理もないな」とも思います。なぜなら、主イエス が生きる地域では、その人物について固定観念に従って 考えることが当たり前だったからです。その人の出身地・居住地・家族・性・年齢・帰属集団などとの関連で考えていたようです。そして、「罪人」だとか「汚れている」とレッテルが貼られた場合、その人の地位そして 生活は崩壊します。何より重大なのは「魔術使い」と言 われることでした。「悪霊の頭」であるベルゼブルに取りつかれ、その魔力を持っていると看做されることは、 何としても避けなければならないことであり、一度レッ テルが貼られると、そのレッテルを取り除くことはほぼ 不可能だったようです。
だからこそ、主イエスの家族は自分たちの生活のため、そして主イエスの人生のため、主イエスの取り押さえにきたのでしょう。主イエスが「罪人」「悪霊に取り 憑かれている」とのレッテルを貼られれば、その影響は家族にも及びます。
しかし、このレッテル貼りは主イエスの生きた場所か ら、距離も時代も遠く離れている現在の日本でも起こっていますね。コロナ感染症に関してもそうですし、人 種、セクシャリティ、仕事、福島の原発事故による避難者に対してもレッテル貼りが行われています。主イエス の時代から二千年たった今の私たちもまた、その人をそ の人として見るのではなく、出身地・居住地・家族・ 性・年齢・帰属集団を基に見る癖があるのでしょう。
何れにしましても、主イエスがずっとされたように、 私たちもまたその人の所属云々ではなく、その人自身を 見る必要があります。主イエスはその人が男性か女性か、どこの家の人か、何の病気か、などではなく、神に愛されている一人の人として接しました。悲しいかな、 そのような姿勢つまり、神のみ心を貫き通してからこそ、主イエスは「罪人の仲間」「悪霊に取り憑かれている」とレッテルを貼られたのですが。しかし、それが神のみ心だからとその道=十字架の道を歩まれました。
主イエスを連れ戻しにきた家族を前に主イエスは言います。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。新しい家族を主イエスは作ります。それは、神のみ心を行う人という新しい家族です。それ以 外には、人種も階級も、貧富も性も病も関係ありませ ん。神に造られた人、という共通項だけが重要なのです。
私たちには弱さがあります。しかし、主イエスが作ら れた新しい家族像は、私たちが持つ弱さを打ち壊すものです。そして、どのような状況でも私たちを心に留めてくださっている神の愛があります。私たちが互いに支え合いながら、自分の足で歩んで行くことができるよう、導いてくださいます。その神の愛を、今日の創世記にみるのです。私たちの心の隙間に未知のものに対する恐れや偏見が入り込むことがあります。しかし、私たちは主イエスの姿勢にならい、全ての人は神に造られた人、神に愛されている人であることを土台としましょう。そして自分自身もまた、神の心に留められている存在であることを覚えましょう。
(司祭ヨハネ古澤)