2019年4月28日 復活節第2主日礼拝説教より 「見ないのに信じる人」
(ヨハネによる福音書 第20章19節~24節)
イエスの復活に出会った女性たちは、そのことを弟子たちに伝えましたが、自分たちもイエスと同じように、捕らえられて殺されてしまうのではないか、と恐怖していました。そのような弟子たちの只中に、復活されたイエスは現れました。イエスは「あなたがたに平和があるように」、つまり「シャローム」と告げます。これは日常の挨拶であると同時に、「主の平和」を告げる言葉です。弟子たちにとってはまさに「主の平和」に出会った瞬間だったでしょう。「主の平和」、それは全く破れもほつれもない一枚の布の状態です。その人がその人として生きていける状態、神から与えられた命を完全な形で用いることができる状態です。弟子たちはそのことを復活のイエスとの出会いで経験しました。
しかし、トマスはその場に居ませんでした。その恵み溢れた出来事に彼だけ立ち会うことができなかったのです。弟子たちの証言を耳にしても、トマスにとっては馬鹿げたことでした。いや、心のどこかでは弟子たちの証言に希望を持ちかけていたのかもしれません。そのようなトマスですが、彼が放って置かれることはありませんでした。一匹の羊が羊飼いによって見つけ出されるように、復活のイエスは彼の許を訪れました。彼だけのためにです。彼にも、他の弟子たちと同じように「シャローム」とイエスは告げます。
最初に墓を訪れた女性たちが、その驚くべき、恵みに溢れた出来事を、大きな希望を弟子たちに届けたように、弟子たちもまた他の人々に届けます。それがイエスから託された弟子たちの使命でした。主のご復活の出来事を耳にした人々は信じたでしょうか。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」というトマスに言われた言葉は、私たちに向けて言われた言葉でもあります。私たちもまたトマスです。私の許を、あなたの許を、主は訪れてくださっています。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年4月21日 復活日主日礼拝説教より 「復活と希望」
(ルカによる福音書 第24章1節~10節)
イエスの死体に処置を施しにいった女性たちは、イエスが死んだと、また敗北したと思っていました。もちろん弟子たちも同じでした。しかしそうではなかったのです。イエスの墓にいた天使たちは言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。・・・お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
イエスが予告したことが実際に起こっていました。女性たちはそのことを忘れていましたが、天使たちの言葉によって思い出したのでした。聖書には「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とさらっと書いてありますが、実際は「あっ」と言葉にならない衝撃を受けたでしょう。一つのきっかけによって、記憶が頭の中を駆け巡り整えられる瞬間がありますが、それと似た衝撃だったのではないでしょうか。女性たちに重くのしかかっていた絶望に近い悲しみは、いまや燃えるような希望へと変えられました。悲しみは、天使のたった一言で希望へと姿を変えたのでした。女性たちは急いで他の弟子たちのところへ向かいます。この溢れ出さんばかりの希望を伝えるために。
この希望は他の弟子たちへと手渡されますが、弟子たちは最初、それが希望だとは分かりませんでした。弟子たちを、復活されたイエスが訪れた時、彼らは受け取ったものが大きな希望だと気づきます。私たちもそれを受け取っています。神の愛・良き知らせです。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年4月18日 聖木曜日礼拝説教より 「キリストにゆだねる」
(ヨハネによる福音書 第13章14節)
イエスさまがペトロの足を洗おうとした時、ペトロは「わたしの足など絶対に洗わないでください」と言いました。当時、足を洗うのは奴隷の仕事であったようですから、ペトロは自分の師に奴隷の仕事をさせたくなかったのでしょう。ペトロの気持ちは痛いほどよくわかります。しかし、そのようなペトロに対してイエスさまは言います。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と。
また弟子たちの足を洗い終わった後、彼らに告げました。「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」。この一言は、イエスさまが別の箇所で弟子たちに告げた「互いに愛し合いなさい」の別表現のようです。
「愛し合う」でも「足を洗い合う」にせよ、「~をし合う」と言われると、私たちは相手に何かをしてあげることに重点を置きます。もちろん相手を愛するがゆえに、大切にするがゆえに、隣人に何かをすることは重要ですし、イエスさまが様々な場面で弟子たちに告げていることでもあります。しかしそれと同じように、イエスさまは弟子たちの足を洗うことによって、相手から何かをしてもらうことの重要性を弟子たちに伝えているのではないでしょうか。
「わたしの足など絶対に洗わないでください」というペトロの言葉はもちろん師であるイエスさまに敬意を払うための言葉です。しかし「わたしは自分の足は自分で洗えます」という意思の表れとも取れます。これは福音書の時代よりも、今の時代の方が強いかもしれません。「わたしは自分の足は自分で洗えます」という思いは、言い換えれば、私は自分の力で何でもできる、ということです。それが行き着く先は、私には神など必要ない、という思いです。
少々飛躍しすぎかもしれませんが、誰かに身を任せることを拒み続けるなら、最終的には神さまの否定へとたどり着きます。イエスさまの時代、人々はサンダルを履いて生活をしていました。一日が終われば人々の足は土と埃に塗れていたでしょうし、そのような足を友人に洗ってもらうのは気が引けたはずです。現代は埃に塗れることはありませんが、一日中靴を履いている足は、汗がこもって蒸れているかもしれません。その足を誰かに委ねるのは、申し訳ないし何より恥ずかしい。しかし、不思議なことに、誰かの蒸れた足を洗うのは、最初は多少の抵抗があるものの、慣れるとなんてことはありません。足を洗った相手からお礼の一言でも貰えれば、その充足感はなんとも言えません。
私たちは誰かに何かをすることに関しては慣れていますが、何かをしてもらう事にはなれていないのかもしれません。しかし、イエスさまは誰かに与えるだけでなく、誰かから受けることの大切さを十字架の出来事の前日に、弟子たちに伝えます。それは、神さまから私たちに贈られている大きな恵みを、恵みとして受け止めるためのトレーニングではないでしょうか。
誰かに身を委ねることは、キリストに身を委ねることに他なりません。キリストに自分の誇らしい面だけでなく、弱いところも醜いと感じるところもさらけ出して自分を差し出す。その”私”をキリストは温かく受け止めてくれるはずです。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年4月14日 復活前主日礼拝説教より 「イエスは神のみ子」
(ルカによる福音書 第23章1節~49節)
数日前にはイエスをイスラエルの王として迎え入れた人々が、気づけばイエスを「十字架にかけろ」と叫んでいました。凄まじいまでの手のひら返しです。私たちはこの一場面を目にするたびに、心に思います。「なんと薄情な」と。
しかし、これは受難物語に登場する人々に限ったことでしょうか。「私たちは普段、神を疑い、また忘れることはないでしょうか。恥ずかしながら、私は度々神を、正確には神の愛を疑うことがあります。困難に陥った時、また自分の思うように事が進まなかった時、「本当に私を愛して下さっているのですか」と神に問いかけることがあります。この想いが悪いとは思いません。そうではなく、民衆がイエスに対して手のひらを返した行動は、私たちにも容易に起こりうることではないか、と思うわけです。
今日の福音書では、二つのことが示されているように思います。
一つはイエスが神の子であり救い主であることを私たちは忘れ得る、ということです。これは、イースターに向けて、再度私たちがイエスは神の子である、と確認する必要であるということでもあります。
もう一つは、神に立ち返ろうとする人をイエスはどのような状況であれ、受け入れてくださるということです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(第23章43節)という罪人への言葉がそのことを示しています。なんという恵み。なんという愛。この福音を覚えて、今日からの一週間を共に過ごしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年4月7日 大斎節第5主日礼拝説教より 「キリストの想いを見るために」
(ルカによる福音書 第20章9節~19節)
ユダヤの人々が神の独り子であるイエスを拒絶したことで、福音はまず異邦人に届けられました。それから二千年。福音は世界中に広がりました。しかし、私たちは神のメッセージをきちんと受け止めることができているでしょうか。イエスは十字架にかけられた時、イエスの横にあと二人、十字架にかけられた罪人がいましたが、悔い改める罪人をイエスは赦されました。そしてまた、「全ての人を神は愛しておられる。「救おうと思っておられるのだよ。」 このメッセージを伝えたがゆえに、イエスは十字架にかけられたのでした。
神は全ての人を愛しておられ、全ての人を救おうと願われている。このようなメッセージを私たちは受け入れられるのでしょうか。それは、キリストは私を愛しておられ、私を救おうとされているというメッセージでもあります。もしかしたら、「あの人を神は愛しておられる」というメッセージ以上に「私を神は愛しておられる」というメッセージの方が受け入れにくいと感じる方が多いかもしれません。「私なんか救われるの」というように一段低く自分を見てしまうことがあるかもしれない。また、「本当に私のことを愛してくださっているのですか」と自分の置かれている状況に困惑しているかもしれない。
しかし、神さまは何とか私たちを救おうとされている。『どうしようか。私の愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』というぶどう園の主人の言葉には、頭を悩ませながら何とかしようとする思いがあふれ出ている。夜空に星が輝くように、神の愛は輝いている。しかし、人の思いが強すぎて神の想いが見えないことがある。私たちに求められているのは、自分は神から愛されていることを実感すると同時に、「あなたは神から愛されているよ」と隣の人に伝えること。それは、自分を大切にすることであり、他者を大切にすること。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」とのイエスの声が聞こえます。
(司祭ヨハネ古澤)