2021年2月28日 大斎節第2主日礼拝説教より
(マルコによる福音書 第8章31節~38節)
「目にしたくないもの」ペトロにとってそれは、主イエスが殺されてしまうということでした。他の弟子たちも同じだったのではないかと思います。「サタン、引き下がれ」。そのように主イエスはペトロに言います。自分がペトロの立場だったらどう感じるだろうと想像します。ペトロはとても悲しかったのではないでしょうか。「あなたを慕っているから、従いたいから、あなたを心配しているのに」と思うのではないでしょうか。同時に思います。主イエスの言葉は「サタン、引き下がれ」という一言は、はたしてペトロに対して言ったのだろうかと。もちろん聖 書の文言には「ペトロを叱って」 とありますから、ペトロに言ったのでしょう。ただ、同時にそれは、主イエスご自身に対して言われたのではないかとも思うのです 。自分を心配してくれる弟子の言葉に、十字架への道を歩むことを止めてしまいそうになった自分自身に対する言葉ではなかったのだろうか と 。
ふと思います。私たちは日々生活をしますが、その生活は何の上に築かれているのでしょうか。電化製品にスマホ、食料、衣服、ゴミ出し。多くの物を消費し サービスを受けることで私たちの生活は成り立っています。しかし、一つ一つ の消費財の背景には、安価な給金で働いている人々もいますし、私たちの出すゴミによって埋もれる場所に住む人々もいます。「じゃあどうすればいいの。あなたは消費せずに生活ができるの」と問われると、「いえ、私も消費しなければ生活ができません」と答えるしかありません。しかし、私たちの生活は多くの人の上に成り立っていることに目を向け続ける必要はあるでしょう。
主イエスは、避けたい道に直面しても進み続けました。それは死を通して生命に続く道でした。主イエスは私たちのために進み続けました。神は主イエスを死なせるために導いたわけで はありませんでした。否、復活させるためでした。それは主イエスが私たちに目を向け続けてくださる道でした。「神と人とに仕えるために行きましょう」。派遣の唱和ですが、誰かに目を向けることは神に目を向けることです。誰かに目を向けてもらっていることは、神に目を向けて頂いていることです。もちろん、「独りぼっち」と感じるときでさえも主イエスは絶えず私たちに目を向け、共に悲しみ、共に喜んでくださっています。しかし、「独りぼっち」と感じる人が一人でもいなくなるよう、私たちは主の一部として、主の目として、私たちの交わりに目を向 け、私たちの社会に目を向けて行きましょう。
その先には、主の復活が、生命に溢れた主のみ顔が、愛に溢れた眼差しがあるはずです。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年2月21日 大斎節第1主日礼拝説教より
(マルコによる福音書 第1章12節~13節)
有名な話のようですが、水戸光圀公は自身の誕生日には白粥と梅干しだけを家臣に用意させたそうです。「親のこころ」で木村耕一さんは、光圀公の心中をこのように推察 します。「なるほど、誕生日は、この世に生まれた祝うべき日であるかもしれない。しかし、この日こそ、自分が亡き母上を最も苦しめた日なのだ。それを思うと、珍味ずくめでお祝いなどする気にはどうしてもなれぬ。母上を思い、母上のご苦労を思えば、自分はせめて一年中でこの日だけでも、粗末な料理で母上のご恩を感謝してみたい」。
光圀公が、自身の誕生日に「粗末な食事」を摂る理由は、逝去した母親を憶えると同時に、母親の生みの苦しみを覚えるためでした。少し飛躍しているかもしれませんが、母親の生みの苦しみに想いを馳せることは、自身の 生への感謝とも言えるのではないでしょうか。
私たちクリスチャンにとって、洗礼はもう一つの誕生日です。「キリストと一つになって生きる」、「キリストを身に纏う」など、様々な表現があります。そのような洗礼の時、主イエスは洗礼を受けられてすぐに、霊に導かれてサタンから誘惑を受けられました。四十日もの長きに渡ってです。主イエスと共に生きる道へと導かれたクリスチャンは、主イエスと同じように、洗礼を受けてすぐ、誘惑を受けます。視点を変えれば、今まで当たり前だったことが実は、誘惑であるのだと新たに気づかされるとも言えます 。
サタンに誘惑を受けながらも、神中心に物事を見ることを常に忘れなかった主イエスは、サタンに打ち勝ちました。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と今日の福音書にはあります。野獣と人とが同じ場所で暮らす」、というイメージは、聖書が示す始まりと終わりの時のイメージ、真の平和・神の国のイメージです。主イエスがサタンからの誘惑を退けているとき、そこには神の国が存在していました。主イエスと共に生きること、自分中心ではなく神中心の生き方をすることは、「神の国は近づいた」との主イエスの宣言が実行される ことでもあるのです。
コロナ禍での息苦しさ、不安、もどかしさが充満する中にあって、多くの人が「自分は」「自分は」と他者を押しのけ、他者を裁いてしまいます。このような時だからこそ、不安に飲み込まれることなく、共に生きて参りましょう。主イエスと共に。主イエスと共に生きることは喜びです。水戸光圀公が自身の誕生日に母親の生みの苦しみを覚えることで、自分の生に感謝したように、主イエスの十字架を覚えることで、私たちを導いてくださったことに感謝する。そのような喜びの大斎節を過ごしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年2月14日 大斎節前主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(ペトロの手紙二 第1章16節~19節)
今日の使徒書では、「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」との一文がありました。預言の言葉というのは旧約聖書のことですが、今日の日課に照らせば申命記 18 章 15 節の「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」との一文でしょう。ペトロは 山での啓示、つまり 今日の福音書に記されていた啓示「これはわたしの愛する子。これに聞け。」との神の言葉を耳にして、旧約の預言が真実であることを実感したのでした。
福音書日課の「これはわたしの愛する子。これに聞け。」との神の言葉は、 大斎節を目前にする私たちにとって、特に重要な言葉であると同時に心強い言葉でもあります。神は私たちが主イエスの言葉や行いに耳目を傾けるよう促 します。この数週間、私たちは主イエスの権威について見て参りました。権威によって悪霊を追いだし病を癒やす、そのような 主イエスの姿を見ました。病を癒やされた人々は、自分の居場所へと帰ることができました。自分自身として自分の足で自分の人生を再び歩むことがで きるようになったのです。
主イエスの言葉と行いに耳目を傾けるとき、私たちは命の源である主イエスの姿を見ます。「生まれてきて良かった。生きてて良かった」と実感する人生を歩むように促されます。もちろん辛いこと、悲しいことにも直面します。しかし、それにもかかわらず、「私の人生すてたものじゃない」。そのように言える道を歩むよう促されます。
だからこそ、主イエスは言います。「互いに愛し合いなさい」。言い 換えれば「互いに大切にしあいなさい」「支え合いなさい」。一人ひとりが、「大変だった。でも生まれてきてよかった。私の 人生、捨てたもんじゃない。」と言えるように、互いに相手の歩みを支 え合う。それがペトロの手紙の言う「暗い所に輝くともし火」です。そして「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と神さまが言うように、私たちは 主イエスの姿にそのための生き方をみるのでしょう。
この水曜日から大斎節に入ります。私たちの信仰の原点である十字架と復活の出来事を記念する日、復活日を迎える心身の備えの期間です。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」との一言を覚え、主イエスの声と姿勢に私たちは何を思うか、少し静かな時間をとって、それぞれの人生に照 らしてみましょう。主イエスと私、どのような関係性だったか、そしてこれからどの ような関係性をもって生きて行きたいか。そのようなことも思い巡らせてみてください。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年2月7日 顕現後第5主日 礼拝説教より
(マルコによる福音書 第1章29節~39節)
2019年12月4日、アフガニスタンで人道支援に取り組んでいた、医師である中村哲さんら6人が現地武装勢力の銃撃に遭い殺害されました。その日からもう 1 年以上が経ちました。中村さんが率いてきた、医療、灌漑、農業支援は今も引き継がれているようです。
昨年の8月に現地で土石流が起こり、中村さんが指導した用水路が埋まってしまう出来事があったそうです。土石流の被害は大きく、家屋 300 戸が流されて16人が死亡しました。現地の人々は、用水路の護岸(河川の堤防が流れによって崩壊するのを防ぐ。土手または崖の上に置かれる傾斜した構造物。コンクリートで出来ているのが一般的)も崩れてしまったと考えていました。しかし、「土砂を取り除くと、護岸が崩れることなく姿を現し、1週間ほどで復旧できた」そうです。住民たちは驚きました。記事には「護岸はコンクリートを使わず、鉄線で編んだ「 蛇籠」に石を詰めて積み、そこに根を張る柳を植えて補強していた。住民が高価な資機材がなくても用水路を維持・管理できるようにと考えた中村さんが、伝統的な技法を採り入れていた 」と紹介されていました。 「現地の人々が自分たちでできる方法で」 という中村さんがずっと大切にしてきた考え方の正しさが証明された出来事でした。
主イエスに病を癒やしてもらったカファルナウムの人々は、ずっと主イエスに町にいて欲しいと願ったことでしょう。「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った」とある通りです 。しかし、主イエスは「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と言います。他の町にも主イエスは癒やしの出来事を通して人々にメッセージを伝えて行くことを望んでいました。何を伝えるのでしょう。恐らくそれは、救いの幅広さでしょうし、私たちが自分の足で生きて行くことができる、その可能性を持っているという ことでしょう。そのために、神に頼ることができるということであり、私たちが支え合うことができるということ。主イエスが弟子たちに告げられた新しい教え、「互いに愛し合いな さい」を思い出します。「あなたがたは、たがいに大切にし合うことができるのだよ」と言います。こう言ったことを主イエスは癒やしの業を通して伝えようとされたのではないでしょうか。
私たちにとって神さまは 自動販売機ではありません。「こうして欲しい」 とお願いをして「はいどうぞ」と願うものをくださる存在ではありません。しかし、私たちが互いに支え合い自分たちで生きる、そのための導き、支えを常に与えてくださいます。そのような主に信頼して、それぞれの歩みを共に進んでまいりましょう。
(司祭ヨハネ古澤)