牧師の小部屋 ⑧
先日、近くのお店に食事へ行った際、パパ友さんとそのご友人がおられ、話の輪に少しだけ混ぜて頂きまし た。その友人さんは「宗教を信じているわけはないけど」と前置きをしてから、「パワースポットが好きでお寺や神社をよく巡る。ローマのサンピエトロ大聖堂も好き。ローマが大好きで年に何度か行く」と話してくださいました。このお話しを伺って感じたことは、海外とはいえ教会もパワースポットになり得るのだ、という(私にとっての)意外性でした。パワースポットやスピリチ ュアルスポットという言葉をよく耳にしますが、国内で紹介されているパワースポットは自然や神社仏閣しか知りませんでしたから、新しい発見でした。
その友人さんは意識的にではないと思いますが、大聖堂の神聖さを神さまと切り離して感じているわけです。 神と切り離して神聖さを感じる、とは不思議な表現ですが、そういうことだと思います。神さまを意識しないで、と言ったほうが正確かもしれません。
そういえば、教会にあまり馴染みがない方が、聖愛教会の聖堂に初めて足を踏み入れると、ほぼ100%の確立で「わぁ~」と感嘆の声を上げます。年齢性別に関わらずです。単に内装がすごい、ということではなく、それ以上の何かを感じているのではないでしょうか。
そんな「何かを感じる聖堂」をきっかけに、教会へ足を運んだ方が神さまに出会えると良いな、と感じます。 神さまは身近な存在であり、避ける必要など全く無い方である。神さまについてこのような紹介ができるのは、 キリストは近くにいてくださることを知る私たちの特権ではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年3月19日 大斎節第4主日礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第9章1~13節、28~38節)
今日の箇所は、生まれつき目の見えなかった男性が、 主イエスによって癒やされ目が見えるようになり、主イ エスに敵対する人々との会話を経て、主イエスは神の子であると信仰告白ができるようになった物語です。
今日の箇所を読んでいると、この男性がどのような日常を送り、また他の人々からどのように認識されていたかがわかります。生まれつき目が見えなかった男性は、 罪人であると見做されていたようです。 罪人であるということは、町のコミュニティからは外れて暮らしてい るということです。人々と対等にコミュニケーションを取ることはできないでしょう。現に、ファリサイ派の 人々から「お前は全く罪の中に生まれたのに」と叱責を受けています。
そのような立場に置かれている彼が、主イエスによって目が見えるようになった。自分のいのちを生きられるようになった彼は、どのような生き方を選んだでしょう か。今日の箇所の冒頭で「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と問うた弟子たちに主イエスが答えた言葉を思い出します。主イエスはこのように言いました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。一方に目が見えていても主イエスが誰なのかが見えない人々がいました。目が見えな かったその人は、目が見えるようになっただけでなく、 主イエスがキリストであること=最も重要なことが見えるようになったのです。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑦
一枚の絵をご紹介します。有名な絵ですが、ホントホルストの「大工ヨセフと少年イエス」です。作者が異なる同じモチーフの絵は何枚かあるようですが、なぜかホ ントホルストの絵に惹かれます。10 年程前に開催された、大エルミタージュ展で出会いました。 そこでこの絵のはがきを何枚か買い求め、ある方に 「この絵が好きになったのです」と絵を紹介したことがあります。その方はしばらく眺めてから、「ここに描かれている少年イエスは不思議ですね。普通、子どもが父親の作業を眺めるときは、その手許を見る。しかし、こ の少年イエスの視線はヨセフの顔を向いている」。 なるほど。確かに子どもと折り紙などをしていると、 彼らは私がどのように紙を折るか、その手先をじっと見てきます。しかし、少年イエスは優しい眼差しでヨセフ を見つめています。そして少年イエスの右奥ではマリア と天使が何かを話しているようです。 じっとヨセフを見つめるイエス。その暖かい眼差しは今も私たちに向けられているのではないでしょか。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年3月5日 大斎節第2主日礼拝説教より
(創世記 第12章1~4節、ヨハネによる福音書 第3章1~17節)
聖書は「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と証言しています。今日の箇所から私たちが見習うべきことはアブラムが神からの言葉を、神が自分に向けて語りかけた言葉である、ときちんと受けとめたということです。私たちは主に従おうとすればまず主の呼びかけに応 える必要があります。そして、主の呼びかけに応えようとするならば、自分が神に呼びかけられていることに気づく必要があるのです。今日の福音書に沿ってみるならば、そのためには、新しく生まれる=再び生まれる=霊から生まれる必要があるのでしょう。神さまはあえて一人ひとりを聖霊によって導き、少しずつ時間をかけて信じる者へと変えていこうとされているのではないかと思うのです。新しく生まれる道へと私たちを招いておられるのではないかなと。新しく生まれる道とは、神の子である主イエスを信じる者へと変えられる道です。それは 即ち永遠の命を得る者へと変えられる道です。
ニコデモは確かに主イエスに心引かれていたでしょう。しかし、やはり信じ切れずに敵対する心も一部あったはずです。しかし、このニコデモは新しく生まれていきます。主イエスが十字架上で息絶えた後、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取りにピラトのもとへ行き、遺体を十字架からおろします。その場にニコデモが遺体を埋葬するための香料をもって訪れます。神さまは少しずつ 少しずつ私たちを新しく生まれる道へと、信じる道へと導いておられるのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛 され」ました。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」にです。
(司祭ヨハネ古澤)