2021年5月30日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日拝説教より
(ヨハネによる福音書 第3章1節~16節)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛 された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と福音書は証言します。 イエスがキリストであると信じる者が一人も滅びないように、と神は願っておられる。そして、全ての人が滅びないように、聖霊を送ってくださった。私たちが信仰告白できるように。イエスがキリストであると信じるこ とができるように。なんという喜びでしょうか。 しかし私たちは忘れてはいけないことがあります。この喜びは主イエスの十字架のできごとの上に成り立っていることを。一人の命が取り去られた結果もたらされた喜びです。私たちのために主イエスが犠牲になられた、とよく口にします。「犠牲」という言葉はしばしば美しい響きを放ちます。「あの人が犠牲になってくれたので、多くの人が助かった」、よく使われるフレーズです。しかし、一人の命はとても重い。背負いきれないも のです。阪神淡路大震災の時、東日本大震災のとき、自分が生き残ったことに対して「なぜ自分だけが生き残ったのか」と長年苦しむ方が多くいます。それほどに重い主イエスの命の上に私たちの救いと喜びがあるということを私たちは忘れてはなりません。だからこそ、信仰告白ができることが喜びなのです。救いに与っていることが喜びなのです。新しく生まれるとは、新しく生命を与えられるということでもあります。それは弟子たちを通して示される 「小さな復活」の出来事から見て取れます。主イエスが 十字架に架けられ、復活された後のことを覚えているでしょうか。復活節の福音書で何度か読まれました。弟子たちは自分たちの先生が処刑されたことに落ち込み、ま た自分たちも捕らわれてしまうのではないかと恐怖に沈 んでいました。体は生きていても、心は死に瀕していたのです。しかし、主イエスが約束されたことを信じ、心を一つにして祈っているとき、弟子たちの上に聖霊が降りました。弟子たちは主イエスがいたときのように力強く福音を証ししていきます。今までは、自分が捕らえら れるのではないか、と恐れて語ることができなかった弟 子たちが、主イエスが共にいるときのように語り出した のです。いえ、主イエスが共にいることが分かったからこそ語り出すことができたのでしょう。これが弟子たち の「小さな復活」です。 恐れや困難に直面するとき、悲しみに直面するとき、 私たちも弟子たちと同じ状態になることがあります。体 は生きていても心が死に瀕するときがあります。暗い洞窟に一人置かれているような感覚に陥ることがあります。時にそれはとても長い洞窟です。日常の色が取り去 られたような感覚になることもあります。しかし、聖書は証ししています。キリストが約束を守ってくださっ た。だから永遠にキリストは共にいてくださる。それ は、私たち一人一人が命の息を吹き込まれることです。 キリストは私たちを集めてくださった。それは私たちが支え合いながらそれぞれの人生を力強く歩むことができ るように。困難があっても、共にその道を歩んでいけるように。そして、私たちの人生そのものが、神のみ業を証しするものとなるように。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年5月23日 聖霊降臨日主日礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第20章19節~23節、コリントの信徒への手紙一 第12章4節~13節)
私たちは一人ひとりが神の霊を受けた存在です。だ からこそ全ての人が尊く、全ての人の存在が意味あるものです。そして私たちの内、誰かが欠けること・蔑ろにされることはキリストの体が欠けること・傷つくことを意味します。神の国の完成は、言い換えればキリストの体の完成でもあります。ある議員さんが「LGBT は生物学上の種の保存に反する」と発言されたようですが、この発言は私たちの視点からすれば、神がお造りになった存在を否定することです。また、時々「私は何もお役にたてないから」と申し訳なさそうに仰る声を耳にします。そう言わせてしまう のは牧師の責任ですけども、何かができるから存在意義があるといういわけなく、あなたが存在することが尊いわけです。聖パウロが言うように「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」存在です。 私たちは個々が岩を穿つ一滴です。聖霊降臨の出来事は教会の誕生日と言われます。それは同時に私たちが神から霊を受けた存在・命を受けた存在であることの確認です。そしてそれは、私たち一人ひとりが神に造られた尊い存在であることを示します。コロナ禍による困難はまだ続きそうです。経済状況も 悪化し、職を失う人も一層増えるかもしれません。その ような中で、自身の存在意義を疑う人が現れるかもしれ ません。病に伏して、無力さを感じる人がいるかもしれ ません。「あなたは神が造られた尊い存在だよ」と伝えましょう。そして、一滴の働きかもしれませんが、私たちができる働きを続けましょう。それは岩を穿つ働きです。神の働きへの参与です。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年5月16日 復活節第7礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第17章11c節~19節)
神の選びというものは本当に不思議なものです。マティアやユダを始め、主イエスの弟子達が選ばれた理由も私たちには分かりませんが、私たちが選ばれた理由もわかりません。なぜ私たちが神に招かれ教会に繋がるものとなったのか。しかし、今日の福音書には弟子達が、そして私たちが選ばれ、主イエスが弟子達を、また私たちをお守りくださっている、その理由が書かれていました。主イエスから父なる神へ祈ってくださっていましたね。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼ら を守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」と。「一つになる」。これは私たちが一 つとなる。少し強引な解釈かもしれませんが、誰ももれることのない平和、神の平和を実現するため、と言った意味も含まれているのではないでしょうか。
私たちにそんな大役務まるのでしょうか。少なくとも私は「無理」と即答します。でも神が用いてくださるんです。マティアを用いられたように。神は私たちをなぜ 選ばれたのでしょう。それは私たちには分かりません。 しかし、くじで選ばれたマティアという名前は「ヤハウ ェの賜物」「主の賜物」という意味です。選び自体が神の賜物であると感じます。そして何より、私たちの存在そのものが神さまからの贈り物です。神から贈られた命ですから、私たちが精一杯生きること、それが神さまへの応答と言えます。
主イエスは言います。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってく ださることです」。私たちが精一杯生きられるために、 神が私たちを守ってくださるようにと祈ってくださいま す。そして全ての人が精一杯生きられるよう、私たちを用いてくださる。私たち人類が一人も神のみ手からこぼ れることのないように。主イエスが地上にいなくなっても、私たちがひとりぼっちにならないよう、聖霊を送ってくださった。それが来週の聖霊降臨の出来事です。聖 霊に導かれ、主イエスの行列は今も続きます。
私たちもその列に加えられていることを覚えたいと思 います。そして主イエスは病のうちにある人、困難を抱 えている人の許へまっ先に行かれたことを覚えたいと思います。何より、全ての人の命が神さまからの贈り物であることを覚えましょう。コロナに罹患したがために今まで住んでいた家を引き払わなければならなくなった方もいると聞きます。分裂の原因である恐れが取り除かれ ますように。そして顔を合わせた交わりが再開出来る日まで、主がこの群れをお守り下さるように。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年5月9日 復活節第6礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第15章9節~17節)
異邦人が主イエスを信じるようになった、との一方はエルサレムにいる弟子たちの耳にも入りました。アンティオキアに派遣されたバルナバは福音を信じた異邦人を見て反発するどころか、「神の恵みが与えられた有様をみて喜び」と記されており、その理由を「バルナバは聖霊と信仰とにみちていたからである」と聖書は証言します。ここにも主の働きかけがあったのです。
当時のユダヤ人キリスト者は驚いたでしょう。「まさ かユダヤ人でない人々が自分たちと同じ信仰を持つとは」と。「まさか、彼らが福音を信じるとは」と。今日の使徒書、ヨハネの手紙はこのように言います。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくだ さったからです」。当時の弟子たちは「救われる人」と 「救われない人」を線引きするように「信じるであろう人」と「信じないであろう人」を自分たちの考えで線引きしていたようです。しかし、神さまからすればそうでは無かったのでしょう。「私が誰を愛するかは私が決めるよ」と。同じように「誰に福音を知らせて欲しいかも私が決めるよ」と。だからこそ、主は異邦人に福音を告げた人々を助けられたのでしょう。そうして欲しいと主が願っておられたから。
福音書で主イエスが語られた一言にも、当時の弟子たち、そして1 世紀末のヨハネの教会の人々も驚いたかもし れません。「あなたがたがわたしを選んだのではない。 わたしがあなたがたを選んだ」との一言です。私たちも 主イエスを信じるかどうか、信仰に入るかどうかを自分で選んだと考えるときがあります。たしかに、教会に連 なるかどうか、礼拝に出席するかどうかという意味では自分で選択しているのでしょう。しかし、神に愛されるかどうかという意味において、私たちの選択は意味をな しません。預言者ヨナが神の手を逃れられなかったように、私たちがどれだけ神の愛を振り払っても、私たちを愛してくださることを止めることは出来ないのです。 その愛への応答が神を愛すること、つまり信仰であり、互いに愛することの実践です。神から愛されることを拒 むことは残念ながらできないのです。そして「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」というように、私たちが誰かを大切にすることは、神が私たちを愛して下さったことの証明となり ます。神の愛のバトンを手渡しすることです。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年5月2日 復活節第5礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第10章11節~16節)
今日の福音書箇所は主イエスの告別説教の一部で す。十字架の出来事を眼前に、弟子たちと離れなければ ならない。そのような状況下にあって、弟子たちを励まし、弟子たちがこれから生きていく上で必要なことを告 げています。
「世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と主イエスは言います。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしも その人を愛して、その人にわたし自身を現す」からです。
主イエスの掟、つまり新しい掟である「互いに愛し合 いなさい」ということ。もちろん、この主イエスの言葉 は終末的な意味があるでしょう。しかし、私は思うので す。その人々が互いに愛し合う時、つまり相手を大切にし合うとき、そこに神の働きが現れる、主イエスの息吹を感じるのではないかと。
主イエスは言います。「わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」と。「かの日には、わたしが父の内 におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と。主イエスを忘れないことは、主イエスが私たちの内にいらっしゃることなのです。わたしの心の内は、時には自分 自身でもわかりません。
だからこそ、自分の思いを少しでも理解してくれる人、理解しようとしてくれる人が現れると、私たちはとても安心します。癒やされます。そ の私自身の内に主イエスがいてくださる。何にも代えがたい喜びです。だからこそ、私たちも他者を理解しようと努めます。 主イエスが十字架への歩みで私たちへの愛を示されたように、私たちも行動で他者への愛を示します。私たちもまた、キリストに目を向けます。それは私たちが誰かを大切にするとき、また私たちが誰かに大切にされるとき、そして私たちが自分自身を大切にするとき、そこにキリストの息吹を感じるのです。
新型コロナウイルスにより病床にある人々と逝去した人々、その家族、医療に携わる人々、大きく生活を変えられた人々を覚えて祈ります。いま、施設や病院に入所している兄弟姉妹、そして家族への面会が中々適わず肩を落とす兄弟姉妹、長引くコロナ禍に疲れを感じている兄弟姉妹を覚えて、主の癒やしと支え、導きがありますよう祈りましょう。
(司祭ヨハネ古澤)