牧師の小部屋 ㉓
YouTubeやポッドキャストに「B-side Talk」という番組があります。ソニーミュージックが企画している番組で、毎回ミュージシャンや俳優、芸人をゲストに招いて心と体の健康に関する内容を発信しています。「ソニーミュージックがなぜ心と体の健康をサポートする番組を企画しているのだろう」と思い、B-sideのホームページを覗いてみました。次のようにありました。 『このプロジェクトは、アーティスト・クリエイターの皆さんと、その活動を支えるスタッフがメンタルに不調を感じた時に、気軽に利用できる専門家のサポートを提供したい、という発想から始まりました。A-side(表に立つ自分)だけでなく、B-side(普段の自分)もサポートします、ソニーミュージックグループは、どんな時にもあなたのそばにいたいと思っています(Beside)、そんな想いを込め、プロジェクトをB-sideと名づけました。』(https://info.b-sideproject.jp/) 「B-side」というタイトルはタレントさんの仕事とプライベートをカセットテープのA面B面に見立て、また寄り添う(Beside)をかけて付けたのですね。そう言えば、コロナ禍に入ってから俳優やミュージシャンをはじめ芸能人の自死が相次ぎました。彼らの表(A-side)は大きな舞台です。心身への負担も相当大きいのではないかと推察します。そのような彼らの心身を所属企業がサポートしてくれるというのは、ファンとしても嬉しい限りです。しかし、A-side(表に立つ自分)とB-side(普段の自分)は誰もが持っている側面です。仕事をするときの自分、学校での自分など様々な場面での自分と普段の自分。時には家庭もA-sideになるでしょう。私たちは誰もが生活する上でストレスに触れています。その結果、いつの間にか心身への負担を感じることもあるでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書 第11章28節)とイエスは言います。休むこと、リフレッシュすることを躊躇せず、心身を大切にお過ごし下さい。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年12月24日 降臨節第4・降誕日主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第2章1~20節)
イエスさまの誕生はどのような意味を持つのでしょうか。おそらく沢山の事柄があげられるでしょう。救い主がお生まれになった。神さまが私たちと同じ人間になられた。他にもあるはずですが、その一つとして、ある言葉の意味が更新された、ということがあげられます。
聖書には「隣人」という言葉が度々出てきます。イエスさまも重要な教えとして「また、隣人を自分のように愛しなさい」(ルカによる福音書 第10章27節)とレビ記から引用しています。隣人と耳にすると近所に住む人やお隣さんを想像するかもしれません。しかし、イスラエルの人々にとってこの言葉は、同じ国民や民族などを意味する「同胞」として用いられていました。ですから、仮にお隣さんであっても外国人であれば隣人ではなかったわけです。
しかし、イエスさまはその言葉から枠を取り去りました。「あなたがその人を大切に想うなら、あなたはその人の隣人になるのだよ」と教えたのです。クリスマスは正にそのことを神さまが示された出来事だと言えます。福音書に登場した羊飼いたちは、仕事がら律法を守ることができない人々でした。そのため、同じイスラエルの人々から同胞とは見做されませんでした。そして別の福音書のクリスマス物語で登場する東方の博士は外国人です。羊飼いも当方の博士も、イスラエルの人々からすれば同胞ではない=隣人ではありません。しかし、その羊飼いと東方の博士らが最初にイエスさまに会うことができました。神さまの出会いとて、その人の所属が何であるかは関係ないことが示されたのです。クリスマス、それは神さまが全ての人に「私はあなたの隣人だよ」と呼びかけてくださった出来事なのです。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉒
11月10日(金)から13日(月)まで、山梨県清里の清泉寮で開催された日本聖公会宣教協議会に出席してきました。宣教協議会は1995年そして2012年に開催されており、今回で三回目です。1995年の宣教協議会では日本聖公会の戦責告白が出されました。この戦責告白は翌年の管区総会で採択決議がなされています。2012年には「日本聖公会<宣教・牧会の十年>提言」が出され、植松誠首座主教(当時)の呼びかけで十年後に宣教・牧会の実りを持ち寄ることとなりました。今回の宣教協議会はその呼びかけに応じる形で開催された側面もあったようです。
今回の宣教協議会のテーマは「いのち、尊厳限りないもの~となりびととなるために~」でした。前半部分は2012年のテーマを踏襲していますので、今回の鍵語は「となりびととなるために」だと言えそうです。そして実行委員会はこの宣教協議会で ”聴くこと” と ”対話すること” を大切にするよう参加者に呼びかけました。「他の人に対して敬意を払い、お互いの考えかたの違いを尊重しましょう」や「多様な人がいることを意識し、ジェンダー、年齢、立場、地域性などの違いに敏感になりましょう」との呼びかけ/注意事項がなされました。当然といえば当然の呼びかけ/注意事項ではありますが、昨今の社会で軽視されがちな事柄とでもあります。
参加者はこのような姿勢でもって4日間を過ごしました。三つの「小さな教会」の物語を聴き、いのちの現場で働く四人の物語を聴き、11教区の主教のメッセージを受けました。来年1月か2月から、宣教協議会の動画をご一緒に視聴していきたいと考えています。その際はぜひご参加ください。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年12月10日 降臨節第2主日礼拝説教より
(マルコによる福音書 第1章1~8節)
降臨節も二週目を迎えました。「アドヴェントのろうそく点火の祈り」で覚えたように、第二のロウソクは「平和のろうそく」とも呼ばれています。祈りの中に「隔たっている人々の間を平和のうちに結び合わせてください」とありました。私たちは破れ・綻びのない世界を求めて神の働きに加わっていきます。たとえそれが大海の一滴にしか過ぎないような働きであってもです。
今日の福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」との一節で始まりました。福音=グッドニュースを表す「エウアンゲリオン」とは、元々は戦勝報告を指す言葉でしたが、人類の救いの報せを意味する言葉として用いられるようになりました。処刑道具であった十字架が主イエスの復活によって救いの象徴とされたように、神の働きに加わる人を通して、言葉や道具を私たちの命を支える物へと変化させていかれたのです。
旧約日課のイザヤ書に「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とありました。時代がどれだけ移り変わろうとも、神の言葉・神の子イエス・キリストの福音は変わることなく示されるのです。それは、神の救いの働きがずっと続いていることを表します。ペトロの手紙が「主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と記している通りです。誰も孤独の中に置き去りにされないように、誰の命も蔑ろにされないように。全ての人が神から大切にされていることを実感できるように。私たちは大海の一滴として神の働きに加わっているのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年12月3日 降臨節第1主日礼拝説教より
(イザヤ書 第63章19b~64章8節)
赤ちゃんが生まれるのは十月十日と言いますから、大体この時期にこの赤ちゃんは生まれてくるのだな、と出産予定日が立てられます。しかし、大まかな日はわかりますがずばり出産予定日に生まれてくることは稀です。ましてや何時何分に生まれてくるかなんてことは分かりません。人の死もそうです。臨終の場面、この方はもうすぐ天に召されるということは経験からわかっても、やはりあと何日後ということを確実に予測することはできません。それほどに、人の命は人の手にあまるものなのです。
なぜでしょうか。それは私たちが人間に造られた存在ではなく、神さまに造られた存在であるからでしょう。今日の旧約聖書日課のイザヤ書に次のような一文がありました。「主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業」。神さまは粘土をこねて皿や壺を造る陶器職人であり、私たちは神の作品である、と預言者イザヤは言います。また創世記第1章では「神は御自分にかたどって人を創造された」とあります。つまり私たちは誰もが神さまの似姿として神さまに造られた存在なのですね。だから、全ての人は尊い存在であり、大切な存在であるわけです。そして、この世もまた神さまの作品です。主イエスは、終末の時どのような事が起こるかその予兆はあると言います。しかし、それが何時かは分からないとも言います。それは神さまの領分だからです。当然、人間に分かるはずもない。だから、「目を覚ましていなさい」と主イエスは言います。いのちそのものである赤ちゃんに目を向けるように、いのちを造り出す神さまに目を向けながら、私たち日々を歩みましょう。
(司祭ヨハネ古澤)