2017年9月17日 「キリストが共にいる、ということ」 於:聖ガブリエル教会 (マタイによる福音書 第18章21節~35節)
「私たちと神の関係も、この家来と王の関係と同じだ」そのようにイエスはたとえ話を通して私たちに言います。私たちは神に対して莫大な負債があります。しかし神は、私たちに憐れみを感じて、ただそれだけの理由で赦してくださる。支払いを延期するのでは無く、「帳消し」にしてくださった。それが私たちと神との関係なのだと、イエスは言います。
そうであれば、赦しを乞う仲間、信仰を共にする兄弟姉妹、神へ多額の負債を持つ者同士が赦しあうのは当然では無いか、とイエスは問いかけます。
そこで私たちはふと疑問に感じます。神が帳消しにしてくださった負債はどこへいったのか、と。莫大な額の負債です。それはイエスが肩代わりしてくださったのだと思い出します。十字架の出来事です。イエスはたったお一人で私たちの負債を肩代わりしてくださいました。しかし、十字架の出来事が起こったとき、イエスが負債を全て負ってくださったとき、誰かが神に赦しを乞うたでしょうか。誰も赦しを求めてはいなかったはずです。そこにあるのは一方的な赦しです。一方的な神の愛です。私たちが共に祈るとき、キリストが共におられるというのは、そこには大いなる赦し・愛が存在するということです。それは私たち人間は神の赦しによって生かされているのだ、と確認することでもあります。私たち教会が世に伝えるべき重要なメッセージの一つです。
キリストの深い愛に包まれていることを実感すると共に、教会があることの重要な意味を今一度見つめていきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年9月10日 説教より「キリストの体として」 (マタイによる福音書 第18章15節~20節)
教会は、2000年前に生きたナザレのイエスを救い主(キリスト)と信じ、イエスが生き方を通して示された神の愛に倣い、生きようとする人々の集まりです。しかし、私たちは個々に異なる存在ですし弱さを持った人間ですから、時に反目し合い諍いが起こることもあります。そのような時にこそ、イエスの示された神の愛に目を向けるように、と福音書は語っているように思います。そして、私たちが抱えるエゴに目を向けるのではなく、信仰を共にする教会が抱えるべき想い・願いに目を向けるよう促します。それは、キリストの想い・願いでもあります。私たちの教会が一致して目指すものは何でしょうか。もちろん、個人の癒やしや慰めを否定することではありません。主の平和を目指すのであれば、個々の癒やし・慰めは必ず含まれます。
聖愛教会創立70年の節目を迎えたこの年、私たちが目指すものは何であるのか、目標に到達するために必要な、私たちが行い得る具体的な働きは何であるのかを、祈り模索する時期が来ているのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年9月3日「キリストを頭として」 (マタイによる福音書 第16章21節~27節)
イエスはペトロに対して「あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言いました。しかし、神の想いを最優先して受難の道を進まれたイエスは、私たち人間のために死に復活させられたのでした。神のことを思って生きることは人間のためになる、ということが起こっているのです。私たちの罪を自分の十字架として担ったキリスト。そこにはひたすら他者のために生きるというイエスの姿勢が表れていました。イエスのいう「人間のことを思う」生き方というのは、自分のことだけを思う生き方。「神のことを思う」生き方というのは、他者のために生きることを示しているのではないでしょうか。そこにはひたすら命を活かす道が示されています。
私たちは一人一人が個々の存在ですが、同時にキリストの体を形作るものでもあります。「キリストに結ばれて一つの体を形作っている」存在です。私たちの体の頭はキリストです。だからこそ、私たちはキリストの思いに従って生きようと努めます。私たちひとり一人は考えも得意なことも好みも違います。しかし、キリストの思いに従おうということに置いては一致しています。神の言葉が何であるのかを祈り求めましょう。
イエスの受難予告を聞いたペトロが狼狽したように、それは時に受け入れがたいものかもしれません。しかし、私たちを活かそうとしてくださる神の思いなのです。他者の命を活かすための道のりです。私たちを活かしてくださる、キリストの愛の道のりです。
(司祭ヨハネ古澤)