牧師の小部屋 57
洗礼者ヨハネは人々に力強く「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言し、イエスが来られることを人々に伝えていました。しかし、本日の箇所では、ヨハネは捕らえられて牢屋に入れられています。そして、自分の弟子達からイエスのなさったことを聞きいたヨハネはイエスのもとへ弟子を遣わせて尋ねます。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。
ヨハネがメシアであるイエスに対して抱いていたイメージは「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」方でした。だからヨハネは尋ねざるを得なかったのでしょう。「メシアは本当にあなたなのですか」と。イエスは答えます、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。イエスはご自分が今まで行なってきた業が、メシア預言の成就であることを明らかにされます。
目が見えずまた足が不自由であるため、社会から疎外されていた人々は、見えるようになることで、歩けるようになることで社会の営みに参加することができる。この事実はその人にとって、大きな回復の出来事でした。「天の国は近づいた」と言ったヨハネの宣言が、まさにごく一部の地域でではありますが実現していたのでした。それは、ヨハネの想像する力強さによって引き起こされるのではなく、慈しみと愛といった柔らかさでもって行われていました。
使徒書のヤコブの手紙はこのように語っています。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」。天の国(神の国)が完成するまでは、キリストが来臨するまでは、まだまだ時間がかかるかもしれません。しかし、私たちはそれぞれの人生を送る中で、主の働きを垣間見ています。それは洗礼者ヨハネが「来るべき方は、あなたでしょうか」と拍子抜けするような事柄かもしれません。しかし、主の働きは実際に確実に起こっているのです。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 56
年に二度ほどのペースで、管区のから『祈祷書改正ニュース』が出ています。連載記事の一つに加藤博道主教(元東北教区主教)の「祈る教会」があります。ニュース第5号の記事では、「地上の現実から目をそらさない礼拝であると同時に、天使たちと共に神の祭壇の周りで喜んでいる、そのような感覚も大切にしたい」と述べておられました。心に残った個所を抜粋・ご紹介します。
礼拝の外見的な面からみても、日本の教会はとくに厳粛さや静粛さを重んじてきたように感じます。もちろん礼拝が適当で気楽なものであっていいとは思いません。しかし過度な厳粛さや、規律的な要求、固さは、逆に「人間的」なものであるかも知れません(人間の業、人間の思いに基づいたもの、時には権威主義につながるという意味で)。ある時、ローマ・カトリック教会の礼拝(ミサ)に出た時、神父さん(おそらくイタリアの方か)が小躍りするように、本当にフンフン♫と聖歌を口ずさみながら出てきて、嬉しそうに祭壇のろうそくに点火するのを見たことがあります。不謹慎とは思いませんでした。むしろ、神の祭壇の周りで奉仕することが嬉しくて仕方ない、そんな様子に見えて、こちらまで幸せな気持ちになりました。「高齢の天使」が出てきて嬉しそうに奉仕している、そう思えたのでした。
祈祷書を大切にすることはもちろん、私たちの共同体の想いを、個人の想いを大切にしながら、私たちが心を合わせて祈る、そのような礼拝を守っていければと願います。
(司祭ヨハネ古澤)