2017年8月27日「いつまでも、共に」 (マルコによる福音書 第1章21節~28節)
わたしはストレートにイエスのことを「あなたは生ける神の子です」と言えるペトロの素直さと言いますか、純粋さを心底尊敬します。ペトロのこの言葉は、何か計算があったのでもなく、ましてや褒めてもらおうと媚びを売ったのでは無く、今までイエスと旅をして目にしたこと、耳で聞いたことをひっくるめた結果、心の底からわき出た言葉でしょう。実際、ペトロの告白に対してイエスはこのように言います。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と言ったこの言葉は、天の父が言わせてくれたことなのだよ、とイエスは言います。
イエスがペトロを教会の礎としたのも、天の国の鍵をお渡しになったのも、この素直な心、それこそ子どものような心をペトロが持っていたからでしょう。もちろん私達はペトロが強い人間でないことを知っています。イエスが捕らえられたときに逃げてしまったことも、イエスの裁判中にイエスのことを三度「知らない」と言ったことも知っています。
そのような弱さと素直な心を併せ持つペトロを、イエスは教会の岩として選びました。それはペトロが神の導きをしっかりと受け止めて、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したからでした。私達の教会は、教会とは神に招かれた者の集まりですから、言い換えれば私達ひとり一人は、このようなペトロに繋がっています。弱さを持つ者であり、イエスを救い主と告白する者です。 (司祭ヨハネ古澤)
2017年8月20日 「あなたを救うキリスト」 於:聖ガブリエル教会 (マタイによる福音書 第15章21節~28節)
「自分みたいなクリスチャンを神さまは救ってくださるだろうか。天国へ招いてくださるだろうか」と信徒さんから質問を受けることがあります。そのようなときはいつも、イエスはいつも「罪人」と見なされていた人々のところへ最初に入っていったことをお伝えすると共に、親鸞の「善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉を思い出します。
有名な悪人正機と言われる言葉です。人間は皆、何かしら罪を犯している。自分は正しいと思い、己の罪に気付いていない「善人」を仏が救うのであれば、自分は罪人であることを自覚している「悪人」を仏が救わないはずがない。そのような言葉だそうです。「仏」を「神」に置き換えると、キリストを表す言葉になりますね。
福音書に登場した女性も、自分が罪人(神に背を向ける存在)であることを自覚していたのではないかと思うのです。最初は無自覚だったかもしれませんが、自分の娘が一大事になったとき、自分たちの力ではどうしようもなくなったとき、神の存在を思い出すと同時に神に背を向けていた自分に気付いたのではないか、と言うと想像を膨らませ過ぎでしょうか。
自分は罪人であるという認識は、イエスなら何とかしてくれる、神は異邦人である自分をも愛してくださるという確信と同時に生まれます。そして、その思いに応えてくださるキリストが私達の目の前におられます。 (司祭ヨハネ古澤)
2017年8月13日 「信じる?信じる!」 (マタイによる福音書 第14章22節~33節)
ガリラヤ湖は山に囲まれた湖でして、かなり強い風が山から吹き下ろしますので、琵琶湖よりも大きな波が起こるそうです。弟子たちを乗せた舟はおそらく小さなものだったでしょうから、かなり波に翻弄されたのではないでしょうか。自分たちはどうなってしまうのだろう、といった恐怖に心が支配されてしまっていたかもしれません。
そのような弟子たちを見て、イエスは自ら弟子たちの舟へと進まれました。この際そこが水の上だったかどうかは些細な事柄でしかありません。イエスが誰に頼まれたでもなくご自身の意志で、弟子たちの乗った舟へと歩まれたのです。そのお姿を見て、ペトロが言います。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」。
しかし、イエスのもとへ進むその歩みには信じる心が必要でした。そう、それは水の上を歩むことなのです。もちろんイエスが共にいてくださるから水の上を歩むことができます。ただ、イエスが私達のところへ来て下さった、そのイエスの心に応える私たちの心が必要です。イエスだけの片思いではだめなのです。イエスが共にいるから大丈夫。その心があって初めて、水の上を歩みイエスのもとへ辿り着ける。そのことをペトロは私達に教えてくれました。言い方を変えれば、イエスは常に私たちのもとへと歩み寄ってくださっている。そして私達は、イエスのお力によって、イエスのもとへと進むことができる。そのようなキリストを信じますか?共に信じて行きましょう! (司祭ヨハネ古澤)
2017年8月6日 「立ち止まって、目を上げて」 (ルカによる福音書 第9章28節~36節)
山の上でペテロたちが聞いた言葉と同じような言葉を、イエスの洗礼の際にも神は語っておられました。洗礼時はイエスにだけ聞こえる言葉でしたが、山の上では周りにいた弟子たちにも、いえ、弟子たちにこそ主は語りかけました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と。なぜでしょうか。おそらく、神は弟子たちに再度目を上げてイエスをよく見て欲しかったのではないかと思うのです。イエスが山に登る直前に目を向けると、このような出来事があります。一つはペトロがイエスのことを「神からのメシアです」と告白します。もう一つはイエスが初めてご自分の死と復活を予告します。弟子たちにすればとても受け止められない予告だったでしょう。
そのような弟子たちを思いやり、神は雲の中から語りかけます。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。ペトロたちにこの言葉は届かなかったかもしれません。しかし、正にこれは神から弟子たちへの思いやりの言葉です。「ああ、自分は神に見つめられていたのだ」と思い返しながらペトロは手紙を書いたことでしょう。
そして、山上での言葉は福音書を通して私達に語りかけます。「イエスは神の子だ。心配するな。イエスの言葉はわたしの思い・願いだ。イエスの言葉に耳を傾けなさい」と。聖霊降臨後の季節が3分の1過ぎました。私達は少し歩みを止めて思い返しましょう。イエスが何を語っておられたのか。何を私達に示されたのか。主は私達を常に見つめておられます。私達も再度キリストに目を向けましょう。 (司祭ヨハネ古澤)