2024年2月25日 大斎節第2主日 礼拝説教より
(マルコによる福音書 第8章31~38節)
本日の福音書にはペトロが自分の思いを神さまの思いに優先させようとしてしまった場面が描かれていました。それは、主イエスがご自分の受難復活について弟子たちに教えたという場面から始まります。「しかも、そのことをはっきりとお話しになった」とありますから、率直に、そして生々しく教えられたのでしょう。主イエスがお話しになる受難と復活の出来事は、しかし報告ではなく教えでした。「弟子たちに教え始められた」とある通りです。
主イエスの教えは多くの群衆の心を打つものでしたが、一方で祭司長や律法学者など宗教指導者そして権力者にとっては耳を塞ぎたくなるものでした。そして、主イエスの受難と復活の教えは、弟子たちにとって聞くに堪えないものだったようです。
主イエスの受難と復活の教えを聞いたペトロは語る主イエスを制し、いさめ始めます。ペトロは、主イエスが排斥され殺されると語る主イエスを止めたかった。そのようなことが起きてほしくなかった。加えて、そのようなことを語ってほしくなかった。そして、そのような自分の思いが実現してほしかった。だから、主イエスを叱り主イエスが話すことを止めたのでしょう。しかし、そのようなペトロの行為は神の思いを退け人間の思いを優先させようとするものでした。
ただし、私たちが注目すべきはペトロの思いや行為ではなく、ペトロと主イエスの正しい関係は何かということです。つまり、サタン=ペトロの思い=神の思いを脇に押し寄せ自分の思いを優先させてしまったことは、正しい位置に留まる必要があるのです。
正しい位置とは主イエスの後ろです。ペトロに対して言われた「引き下がれ」も、群衆や弟子たちに対して言われた「私の後に従う」も同じ言葉です。私たちは、そして私たちの思いも主イエスの後ろに置かれ、主イエスに従う。それが私たちと主イエスの正しい関係です。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉕
ブレナン・マニングという作家がいます。1934年にニューヨークのブルックリンに生まれ、作家として2013年に逝去しますが、フランシスコ会の司祭でもありました。1982年にフランシスコ会を退会して結婚します。彼の本名はリチャード・マニングです。フランシスコ会司祭に叙階されたとき、通例では聖人の名前を頂くのですが、彼は友人であったブレナンの名前をつけたそうです。
マニングは大学時代、海兵隊に入隊して朝鮮戦争に従軍します。その戦場で友人ブレナンに命を救われ、その友人は命を落としたと言われています。戦場でのトラウマからか、友人を失ったショックからでしょうか、マニングはその後アルコール依存症で悩み苦しみます。
アルコール依存症に悩むマニングはしかし、そのことを隠すわけでなく、向き合い、そして語り、多くの人を励ましました。1998年に出版され、昨年日本語訳が発行された『ひと時の黙想 心の貧しい人とは』の著者紹介には、「マニングは、依存症についてだけでなく、数々の自分の失敗を隠さずに語ることを通して、弱さに満ちた私たちに対する、神の激しい愛と恵みを宣べ伝えました」と記されています。「弱さに満ちた私たちに対する、神の激しい愛と恵み」。まさに主イエスが私たちに伝えてくださったことでもあります。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年2月11日 大斎節前主日 奨励要旨
(マルコによる福音書 第9章2~9節)
主イエスと高い山に登った弟子たちは、主イエスの変容を目の当たりにし、「非常に恐れた」と記されています。弟子たちが感じたものは畏敬の念を含む畏れではなく純粋な恐れだったようです。そしてペトロは恐れを感じたがゆえに「仮小屋を三つ建てましょう」と提案したのでした。彼らには心に引っかかっていたと思われる出来事がありました。変容の出来事からちょうど一週間前、主イエスが弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と質問されたときのことです。弟子たちにも「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスは質問をし、ペトロが「あなたは、メシアです」と答えました。すると主イエスはご自分の受難と復活について語り始めた。
そのようなことがありましたから、弟子たちは主イエスの変容を目の当たりにして、主イエスの死を意識したかもしれません。だからこそペトロは、「ここに仮小屋を三つ建てましょう」と提案したのでしょう。仮小屋とは幕屋、つまり聖所(聖なる場所)を意味します。「栄光に輝く主イエス、エリヤ、モーセをこの場所につなぎ止めておきたい」とペトロは瞬間思ったのではないでしょうか。眼前に広がる栄光を自分たちだけのものにしておきたい、と。その願いはすぐに崩されました。福音書はそのときの経緯をこのように報告しています。「・・・雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」(7節)。「これに聞け」には聞くだけで終わるのではなく、実行しなさいとの意味が込められています。新しい掟が思い出されます。「互いに愛し合いなさい」。大斎節を目前に大切にしたいメッセージです。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年2月4日 顕現後第5主日・主イエス洗礼の日 主日礼拝説教より
(マルコによる福音書 第1章29~39節)
今日の福音書には、主イエスの弟子であるペトロの姑が熱に倒れている姿が描かれています。21世紀を生きる私たちからすればたかが熱と感じるかもしれません。しかし、コロナ禍を経験した私たちは、熱がもたらす恐ろしさを再認識しています。シモン・ペトロにとって自分の家族が、村の人々にとって友人の家族が熱に倒れている、うなされている、苦しんでいる。そして何より「神さまから見放されてしまったのではないか」、との恐れ。彼女が苦しむその姿をなすすべ無く見守る人々の心情を、私たちは想像し共に胸を痛めることができるでしょう。主イエス一行が帰ってきたのを知るやいなや、熱に伏している彼女のことを、人々が主イエスに報告する姿を私たちは思い描くことができます。
しかし、人々の不安や恐れはすぐに拭い去られることになります。主イエスが彼女を起き上がらせたそのとき、熱は去りました。熱がどこかへ行ってしまった。ペトロの姑にとって熱から解放されたことは、言い換えれば再び神さまへ感謝を献げ、神さまを賛美することができる状態へと戻ることができた、ということでした。神から見放されてしまったのではないか、という恐れからの解放です。喜びに満たされた彼女は、主イエス一同をもてなした、と福音書は報告します。
「もてなす」は「食卓で世話をする」を意味する「ディアコネオー」という言葉が使われています。これは「奉仕する」「仕える」を意味する言葉でもあります。神への感謝に満たされた彼女は、主イエスと人々に仕えたのでした。
私たちはどのような状態に置かれようとも、私たちが再び神への感謝と賛美を献げられる状態にキリストは引き戻してくださる。そのために私たちは互いに仕え合う存在である。今日の福音書箇所はそのようなメッセージを私たちに語りかけます。
(司祭ヨハネ古澤)