2023年1月29日 顕現後第4主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第5章1~12節)
今日の福音書箇所は「八つの幸い」や「八福の教え」 として有名な場面です。私たちは主イエスが誰に向けて話しているのかを想像してみたいと思います。主イエスに癒やして頂くため、病気や苦しみに悩むあらゆる病人が主イエスの許に連れてこられた、と福音書は語ります。貧しく地位も名声も持たない人々です。彼らに向かって主イエスは言います。「貧しい人々は、幸いであ る、/神の国はあなたがたのものである」と。今まで自分と神との距離は果てしなく遠いと感じていた人々が、 神の働きは「あなた」のものであると宣言されるので す。主イエスから福音(神の国の良き報せ)が手渡されたのでした。
そのような主イエスの「幸いの教え」を、福音記者マタイは自分の教会の人々に向けて発信し直したのでしょう。キリスト者であるがゆえに迫害を受けている福音記者マタイの教会の人々です。「心の貧しい人々=心から神を求める人」「義のために迫害される人々は、幸いで ある」と。「天の国はその人たちのものである」と。つまり、「キリストを信頼し、従う人は幸いである」と告げます。
主イエスの声は今を生きる私たちにも向けられています。「あなたが貧しいとき、飢えているとき、泣いてい るとき、幸いである」とは、私たちがもう倒れてしまいそうなとき、主イエスが語りかけ、私たちを支えてくれる言葉です。そして、福音記者マタイの教会の人々に告げられた「キリストを信頼し、従う人は幸いである」との教えに目をむけるとき、「互いに愛し合いなさい」とのキリストの新しい掟が浮かんできます。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑤
「 聖霊がもたらす出会いに心を向けて 」
聖霊がもたらす出会いに心を向けて次週の木曜日、2月2日は被献日です。被献日は降誕日から40日目にあたります。平日にあたる年が多いですから、礼拝に出席したことが無い方もいらっしゃると思います。被献日の物語は、ルカによる福音書第2章22ー 32 節に記されています。それによると、出産したマリアの清めを行うため、そして主イエスを父なる神にお献 げするために、ヨセフとマリアは赤ちゃんイエスさまを連れてエルサレムを訪れたのでした。
被献日の物語にはとても感動的な箇所があります。それは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望む」シメオンが赤ちゃんイエスさまと出会う場面です。シメオンは聖霊から「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」とお告げを受けていました。信仰が篤かったシメオンは、くる日もくる日もメシアを待っていたのでしょう。そして、その時は突然訪れました。シメオンが神殿の境内に入ってみると、両親に 抱かれた赤ちゃんイエスさまの姿があったのです。福音書はシメオンが「”霊”に導かれて神殿の境内に入って」とありますが、シメオンはふと思い立って神殿に赴いたことでしょう。シメオンにとって、待ち焦がれた” 時”は突然訪れたのです。
ふとしたきっかけで聖愛に初めて足を運ぶ方がいます。たまたま時間ができた方、思い立って久しぶりに来会される方もいます。理由は様々ですが、みな聖霊の働きかけによって聖愛教会に足を運んでいるのかもしれま せん。被献日の福音書箇所を読む中で、教会でのひとつひとつの出会いを大切にしたいな、とふと感じたのでした。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年1月15日 顕現後第2主日礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第1章29~41節)
私たちは繋がりの中で生きています。興味深いことに全ての繋がりには神さまの働きがあります。私たち自身が生まれてきたことすらそうです。私たちは常にキリストに導かれて人生の旅路を歩んでいます。その導きに従うかどうかが、私たちが神さまから与えられている自由です。
しかし、時として繋がりは断たれることがあります。 弟子たちと主イエスの繋がりもそうでした。今日登場し たペトロで言えば、ペトロのイエス否認物語が有名でしょう。弟子たちと主イエスの繋がりは断たれたかに見えました。しかし、十字架と復活の出来事を経てそうではなかったことが分かります。復活されたキリストはまっ先に弟子たちのもとを訪れ、「あなたがたに平和があるように」と息を吹きかけ弟子たちに聖霊を送りました。 それは、弟子たちが主イエスとの交わりに入るようにとの働きかけでした。
繋がりを断ってしまった弟子たちに、主イエスはご自身から赴き、繋がりをより強くしてくださったのでし た。いえ、「繋がりは断たれることなどないのだよ」と伝えてくださったのでしょう。キリストの方から繋がり の回復を告げ、交わりへと招いてくださった。人間が最も恐れていた死ですらも、繋がりを断つことはできない とキリストは示して下さった。だからこそ、弟子たちは自分の足でキリストに従う道を歩んでいけたのです。
コロナ禍により顔を合わすことが難しい状況が長き、 自分の周りの繋がりが希薄になったように感じる方が多くいます。本来なら繋がりを頼れるはずなのに、自己責任と言われ、しんどさを一人で抱え込む人が多くいます。しかし、キリストは繋がりが断たれることはない、 と示してくださいます。キリストと共に歩む私たちの小さな歩みが、私たちの繋がりを、そして社会の繋がりを回復する一助となりますように。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ④
「 今年も一歩を踏み出して 」
一昨年の6月から、教会委員さんが中心になって定期的に週報や教会報と併せてメッセージカードを発送してくださっています。礼拝に来たくても様々な理由で来会が難しい方へ向けて週報とカードを、長らく教会でお目にかかっていない方にメッセージカードを送ります。
発送作業にあたる皆さんには、当初戸惑いもあったようです。メッセージカードに「お元気ですか」など一言 を添えてくださるのですが、カードの送り先が知っている方ならお顔を思い浮かべて一言添えられます。しかし、お顔がすっと思い浮かばない方となると何と書いて良いか迷います。また、それまで週報やカードを送っていなかった方への発送には、「先方が迷惑に感じるので はないだろうか」といった心配の声もありました。もち ろん、「週報を送ってくるのは止めてほしい」とご家族 から教会へ連絡が来たこともあります。しかし、今までご連絡のなかった方からお電話頂くこともありました。 「教会へ行きたいのだけど、これこれの理由でいけなくて」と。「ぜひ週報も送ってほしい」と。ドキドキしながら始まったメッセージカード大作戦が実を結んだ瞬間でした。
しばらくやっていなかったことを行ったり、新しく何かを始めることにはエネルギーと勇気を必要とします。 しかし私たちが一歩を踏み出すその先に、教会を・福音を必要としている方との出会いがあるはずです。教会内・教会外にかかわらずです。歩み出せば、主イエスが私たちを新しい出会いに導いてくださることを信じて、 今年も一歩を踏み出していきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年1月1日 主イエス命名の日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第2章15~21節)
先週わたしたちはクリスマスの出来事として今日と同じ箇所読みました。ふと思うのですが、ヨセフとマリアの視点に立てば、羊飼いたちの訪問は唐突であり、彼らが興奮気味に話すことはとても奇妙に聞こえたことでし ょう。ただ、母マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と福音書は証言します。
奇妙な報告を受けてマリアがしたこと、「思い巡ら す」ことの原意は「その意味を思い当てようとしていた」です。おそらくマリアは、一年ほど前に突然現れ、「あなたは身ごもって男の子を産む」と天使から告げられたことや、ずっと子どものできなかった親類のエリサ ベトに男の子が生まれたことを振りながら、羊飼いたちの証言を受けとめながら、この一連の出来事が意味することを神さまに尋ねていたのでしょう。ベツレヘムへの 長旅や出産場所を探さなければならなかったことの疲れ、何より初産の苦労にあって「その子をイエスと名付 けなさい」という天使からの言葉を忘れていたかもしれ ません。マリアの思い巡らしは、羊飼いの証言とマリア自身が経験した天使ガブリエルとの会話を繋げるとても重要な行動でもあったわけです。「思い巡らすこと」は その出来事の真意を神さまに尋ね求めることでもありま す。私たちの日常にも神さまからのメッセージは届けら れているでしょう。そのメッセージを受けとめようとしながら生きることは、日々を大切に生きることです。それは自分を大切にし、隣人を愛する生き方です。キリストに従う道です。
この一年が、イエス・キリストの歩まれた平和へと続く一年になりますように!
(司祭ヨハネ古澤)