2023年2月26日 大斎節第1主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第4章1~11節)
主イエスは三つの誘惑を受けますが、それらは出エジ プトの際にイスラエルの民が受けたものでした。出エジ プトの物語でイスラエルの民は誘惑に負けてしまいますが、全身が不安に包み込まれて、自分の事しか見えなくなってしまっていました。隣に神が居て下さることが分からなくなっていたのでしょう。
信頼の反対は証明です。福音書に戻りますが、結局のところ、誘惑する者は主イエスに、神が自分を守ってく れるか神を試すよう迫っていたことがわかります。「私 は空腹で死にそうです。石をパンに変えて私を守ってくださっていることを証明してください」と。「ここから飛び降ります。私を守ってくださることを証明してください」。そして悪魔は主イエスに言います。「世界をすべて手に入れたら安心だろ。自分を守ってくれるかわからない神など不要になるだろ」と。
自分のことしか見えていない状況であれば、本当に孤独な状態であれば、悪魔の誘惑はとても魅力的な言葉です。しかし、私の視界に主イエスの姿が、ほんの少しキ リストの影が見えていれば、悪魔の誘惑は醜いものと映るでしょう。悪魔の誘惑を退けること、それは主に信頼をおき続けることです。主イエスと共に十字架を担うことです。そして、誰一人孤独な状態にならないよう、教 会の兄弟姉妹と共に祈り合い、社会の一人ひとりを覚えて祈り続けることでもあります。この大斎節、隣にいてくださるキリストの存在を感じながら過ごしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年2月19日 大斎節前主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第17章1~9節)
弟子たちと山に登った主イエス。突然主イエスの姿が白く輝き、モーセとエリヤが現れました。光輝く雲から 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」と声がします。 この出来事の一週間前、主イエスから「あなたがたは私を何者だと言うのか」と弟子たちは問われました。ペトロは「あなたはメシア。生ける神の子です。」と答えます。今日の場面で雲の中から聞こえた「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声は、ペトロの返答が正しかったことを証明するものとなりました。
しかし、その正しい答えはペトロ自身が導き出したも のではなかったのです。正しい答えを述べるペトロに主イエスは言います。「あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と。
主イエスがキリストであり神の子である、という理解さえも神の恵みであると主イエスは言います。その恵みを私たちも受けているのです。その恵みを確認した私たちが次に求められることは、「これに聞け」という神からの言葉です。「これに聞け」とは「キリストに聞き従え」ということです。
今日の福音書で弟子たちが耳にした「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」との言 葉。私たちが基準にするものが何であるかを示していま す。主イエスを基準にしなさい、と声は告げています。 イエスは誰のもとへ行って何をしたか。何を教え、何を語らなかったか。誰のために何をなさったか。私たちは大斎節の四十日間、これらのことに耳を傾けましょう。そして「これに聞け」の言葉の通り、キリストに従う道を歩みましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑥
「 聖霊がもたらす出会いに心を向けて 」
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった (創世記第1章3節)
冷え込む日が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今年は「野の花の会」の方々が庭のグレープフ ルーツを収穫・販売して下さいました。例年より大きな実がなっていたように思います。 庭のグレープフルーツは、2002 年に逝去された小川博司司祭を記念して、高槻聖マリヤ教会から株分けされ たものです。マリヤ教会の建物裏に大きなグレープフル ーツの木がありますが、誰かが植えたものではなく、気がつくと育っていたそうです。なぜ高槻にグレープフル ーツが自生したのか、答えはわかりません。 神さまのなさることは不思議です。そういえば、なぜ私が信仰を持ち続けたのかも良く分かりません。これが 聖霊の導きというのかな、とも思います。
和歌山の観音山フルーツガーデンでは、マリヤ教会のグレープフルーツを品種改良し、「サンタマリア」として販売されています。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年2月5日 顕現後第5主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第5章13~20節)
本日の福音書箇所、前半は私たちキリスト者が地の塩としてまた、世の光として生きていくようにと、主イエスが語られた箇所です。塩も光も、私たちが生きていく上で無くてはならないものです。塩も光りも、私たちを生かすために自分の身を失っていきます。塩は溶けて私たちの体を支えます。光りはロウであれ油であれ、自分自身を燃やして私たちを照らしてくれます。私たちを生かすために自分の身を献げてくれるのです。
私たちは人生の旅路にあって、私たちは塩としてまた光として、他の誰かを生かすために生きています。それはキリスト者に限ったことではりません。社会で生きる全ての人が塩であり光です。
では、私たちキリストに従う者が特別な塩であり光であり得るとしたら、それは何が特別なのでしょうか。主イエスはこのように言います。「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。律法は全体を見ると、それは愛の戒めであることが分かります。ヨ ハネ福音書で主イエスが言われる「互いに愛し合いなさい」という新しい掟、これが律法の完成形です。それは聖霊の導きによって初めて成し遂げられます。私たちキリスト者の塩と光が特別であるとすれば、それは「神の支えによって私たち誰かのために塩となり光とされている」ということを知っているという点でしょう。
主イエスは十字架と復活の出来事を通して、死が終わりではないことを示されました。だからこそ、私たちは恐れること無く誰かのための塩であり、光りであり続けることができます。
(司祭ヨハネ古澤)