2017年11月26日「神の愛」 (マタイによる福音書 第25章31節~46節)
本日の福音書では「神の愛はどのように人々を包み込むのか」について語られています。それは一言でいえば「私たちを通して、神の愛は人々を包み込む」のです。
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(40節)
「み言葉の礼拝」の最後は「神と人とに仕えるため行きましょう」という唱和で締めくくられます。私たちは「神と人とに仕えるため」この礼拝堂から日常へと送り出されるのですが、今日の福音書をみれば、「神と人とに仕える」という「神と人」は切り離すことができない事柄であることが分かります。「神さまには仕えるけど人間に仕えるなんてまっぴらだ」とは言えませんし、「人には仕えたいけど、神さまに仕えるのはゴメンだよ」とも言えません。飢えている人に食事を差し出す、凍えている人に服を着せてあげる、といった愛の行いは、神に対する愛の行いであると同時に、神さまからの愛の行いでもあるのです。私たちが誰かのために行う愛の業は、実は神の業でありますし、私たちが誰かから受ける愛は、神の愛でありました。
この一年、皆さんにとってどのような一年だったでしょうか。神の愛を感じる一年だったでしょうか。次主日からはまた新しい一年が始まります。神と人とに仕えるため、共に信仰の歩みを続けましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年11月19日 「1タラントン」 於:聖ガブリエル教会 (マタイによる福音書 第25章1節~13節)
イエスのたとえ話はユーモアに溢れているな、とつくづく感じます。主人から一番少額を預かった僕でも1タラントンを受け取ったのでした。当時の労働者の日当20年分です。私たちは「自分は他の人にくらべて与えられたものが少ないな」と感じるときがありますが、それでも実は多くのものを受けているのかもしれません。
そして、受けたものは活用することが求められます。どのようなことが考えられるでしょうか。神さまから与えられたものは一人一人異なりますから、一概には言えないかもしれません。しかし、私たちは「生命」が与えられているという点で共通しています。与えられた生命を通して、また様々なものを私たちは受けています。人生と言い換えられるかもしれません。自身の人生を語ること、これもタラントンの活用に他なりません。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年11月12日「わたしたちの土台」 (マタイによる福音書 第25章1節~13節)
私たちは神の愛の上で生きています。神さまが溢れんばかりの愛で、私たちをこの世へと送りだされました。
しかし、私たちはこの大きな深い神の愛に対してしばしば疑いの眼差しを向けます。「私は本当に神さまに愛されているの?」。それは二千年前、十字架の出来事の後のクリスチャンも同じでした。世の終わりが来て再びキリストが来臨し、神の支配する神の国が訪れる。その時はそこまで来ている。このような気持ちで二千年前の教会に集まる人々は迫害にも耐えていました。しかし終末はやって来ません。不安を感じる人々に聖書を通してイエスは言います。「今までと同じように、同じだけの熱心さでもって信仰生活をしなさい」。
今までと同じように熱心さでもって信仰生活を送る。ゴールが見えていれば容易いことかもしれませんが、出口が見えない中ではとても困難なことだと思います。しかし二千年前のクリスチャンは、互いに支え合いながら信仰生活を送りました。彼らの根底にある神の愛に支えられ、導かれていたからこそできたことでしょう。
私たちの土台である神の愛、神さまに愛されていることを信じることは、「生まれてきて良かった。命をくださって神さまありがとう」と思えることでもあります。何かができるから素晴らしいのではなく、あなたが今ここにいることが尊い。そのことを教会は大切にしてきました。とても地味なことですが、大切にし続ける必要があることです。二千年前の教会と同じように、今の教会も忍耐が求められているのかもしれません。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年11月5日「自分自身を低くする」 (マタイによる福音書 第23章1節~12節)
自分を高くしてしまった人たちの例として、イエスはファリサイ派と律法学者たちを挙げます。「ファリサイ」は律法を守らない(守れない)人から自分を「分離」させるという意味合いを持ちます。律法を現代化・合理化して、日常生活で厳格に遵守しようとしたグループです。律法運用のために彼らが作った細則は613項に及んだようです。信仰深い人々は、出エジプト記や申命記の聖句を記した皮紙を納めた小箱を左上腕と額につける習慣を守り、朝の祈りを行いました。その律法は神さまがイスラエルの人々の命を生かすために与えたものでしたが、彼らはその律法で人々を縛りそして自分たちを高めるため用いてしまったのでした。
私たちが行うことには一つ一つ目的があります。聖餐式は神さまに感謝と賛美を献げるための祭りですし、祈りは平たく言えば神さまと対話をするためです。しかし、私たちはついつい本来の目的を見失い、別のものにすり替えてしまうことが多々あります。
イエスが非難したファリサイ派や律法学者の人々は、神さまから与えられた律法の本来の目的や、福音の本来の姿を見失っていたのかもしれません。己を高くすることは、神の上に立ってしまうことであり、低くすることは神さまの存在を認めることと言えます。「私たちのため」に低くなった神さま、キリストを私たちはこれから迎えようとしています。私たちは主のために低くなるよう努め、キリストの福音がそして教会が与えられた目的を振り返りながら、信仰の歩みを共に進めてまいりましょう。
(司祭ヨハネ古澤)