2019年9月22日 聖霊降臨後第15主日礼拝説教より 於:桃山基督教会
(ルカによる福音書 第16章9節、11節)
今日の譬え話もイエスさま独特のユーモア溢れる、しかし私たちにとって重要な話だと感じます。主人の財産を浪費したあげく、自分の保身のために主人からオリーブ油や小麦を借りている人々の負債を勝手に減額したという管理人の譬え話です。
諸説あるようですが、当時の自作農の税金は世俗の税と宗教的税を合わせると35%から40%。豊かな自作農なら問題ないですが、多くは厳しい懐事情です。小作農になると、加えて土地借用料を払わないといけない。そのような人々にとって、この不正な管理人の行動はとてもありがたいものだったでしょう。しかし、その管理人の行動を良しとする主人の言動を聞いた人々は「え、それで良いの}と笑いを含みながら驚いたのではないでしょうか。
私もこの譬えを読んだ時、「え、それでいいの。不正な管理人の行動は許されるの}と感じました。しかし、奉献時の「すべての者は主の賜物。私たちは主から受けて主に献げたのです}との祈りを思い出した時、「ああ、そういえば私も管理人だな」と妙に納得したのでした。
創世記1章にはこのようにあります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた、『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」(27節~28節)。「支配せよ」は厳密には「管理せよ」ということです。私たちは神さまが創られたものの管理者としての役割を与えられています。そして、私たちが日々手にするもの、働いて得る者も全て神さまのものです。
私たちは人生の歩みで、神さまからすべてをお借りして生きている管理人です。その借り物の財は、神の国に相応しい用い方ができるのだよ、とイエスさまは言います。
イエスさまが語る譬えの管理人は、どのような「無駄遣い」をしたのかは記されていませんが、管理人が他者の負債を減らす、自分以外の人のために権限を用いたことを主人は良しとしました。そのことから推測するに、管理人は自分のために主人の財産と権限を「無駄遣い」していたのでしょう。
私たちはどのように与えられた財産と能力(権限)を用いているのでしょうか。もしかしたら「神の国に相応しく自分の財と能力を用いるなんて不可能だよ」と感じるかもしれませんし、「自分のために財産を能力を用いれないなら生きることが困難だ」と感じるかもしれません。しかし、どのような些細なことでも、小さな出来事でも、神さまはご自身の働きのために用いてくださるのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年9月15日 聖霊降臨後第14主日礼拝説教より 「大歓迎!」
(ルカによる福音書 第15章2節、7節)
本日の福音書でイエスさまは二つの譬えを語っていますが、本来はもう一つの譬え話を含めて三つで一まとまりです。今日の箇所は続く「放蕩息子のたとえ」へと聴衆を導くためのお話です。「つみびと」が悔い改めることへの喜びが語られており、それは神にとっての喜びでした。
当時の「罪人」という言葉に対する一般的な捉え方とイエスさまのそれは違っていました。一般的な捉え方は、病気の人に対して神さまに対して罪を犯した結果、病気となったと見なされました。その人がどのような人であるか、どのように生きているかは関係ありませんでした。
イエスさまの言う「罪人」は、神さまの想いに沿っているか、人を大切にしているか、その人と神さまとの関係に依りました。つまり、その人の職業が何であるかや、その人が病人であるかどうかなどは、その人が罪人であるかどうかの指標とはみなされなかったわけです。
今日の二つの譬えはイエスさまの言う「つみびと」の悔い改めがテーマです。それを神さまの視点から描いています。これらの譬えをもう少し具体的な物語仕立てにしたものが、続く「放蕩息子のたとえ」です。
神さまから離れていた人間が悔い改め、神さまの許に戻ってきた際、神さまがどれほどお喜びになるのかが分かります。宴会を催すんですね。そこには今まで「つみびと」だった本人が招かれています。「つみびと」は単に「つみびと」と一括りにされる存在ではなく、神さまに愛されている「その人」だから。「つみびと」という概念は人間が頑なに使っている言葉でしかなく、神さまにとってはご自分から離れていようがいまいが、一人の愛する人間です。愛する「あなた」です。
神さまは私たちを一括りにせず、「私」を見て下さいます。そして、私たちが神さまの許へ立ち返る時、神さまは私たちを「大歓迎」して下さいます。私たちもまた、出会う全ての人を一括りにすることなく、一人の人間として「わたし」と「あなた」の関係を大切にしていきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年9月8日 聖霊降臨後第13主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(ルカによる福音書 第14章26節、33節)
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」とイエスさまは言います。この一文の「これを憎まないなら」という一言は、しばしば私たちを困惑させます。「自分の家族を憎まないと、イエスさまに従うことはできないのか」と。
この「憎む」という言葉は、「後回しにする」という意味が根本にあるようです。つまり、自分の家族のことを、そして自分のことさえも後回しにして、イエスさまに従う人がイエスさまの弟子にたり得るのです。言い換えれば、全てのことに優先して神さまの働きに参加しなさい、ということです。
だからこそ、今日の最後の箇所でイエスさまは言います。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と。本田神父はこの箇所をこう訳します。「同じように、あなたたちのだれでも、自分のために抱え込んでいるものすべてに対して、見切りがつけられなければ、わたしの弟子でいることはできないのだ。」
私たちは、自分の生活において抱え込んでいるもの、握りしめているものが沢山あります。それは自分のためだけに貯めている財産であったり、プライドであったり、こだわりであったりします。でも、それらは神の働きに参加するためには、つまりイエスさまの弟子であるためには負担になるものです。神さまの働き、それをイエスさまは一言で言い表しました。「互いに愛し合いなさい。」「互いに大切にし合いなさい」ということです。そのためには、自分のためだけの財産、自分を高く見せようとするプライド、「こうでなければならない」というこだわり等は邪魔になります。優先させるもの、それは十字架を背負うということ。神さまの働きを優先させるということなのです。
(司祭ヨハネ古澤)