2018年6月24日 聖霊降臨後第5主日礼拝説教より 「すぐ凪にはならないけれど」 於:富田林聖アグネス教会
(マルコによる福音書 第4章35節~41節)
本日の福音書には嵐を静めるイエスの姿が描かれています。私たちの人生も弟子たちの乗った船のようなものかもしれません。大きな波が押し寄せれば、ひっくり返りそうになることもあります。でも何とか前に進むのですが、私たちは自分の力や努力だけで波を乗り越えたように感じます。しかし、そこにはキリストの支えがあったのではないでしょうか。映画の魔法使いのように、「ほい」と問題を解決してはくれないかもしれません。でも、イエスさまがご自分の足で孤独な人を訪ねられたように、そして弟子たちの叫びに応えて嵐を静められたように。そこにキリストが共にいてくださるから、私たちは歩んでこれたのではないでしょうか。
「共にいてくださる」、「共に泣いてくださる」、つまり「あなたのことを神は見捨ててはないよ」というメッセージ。しかし、そのことを私たちはよく忘れてしまいます。弟子たちが体験したように、私たちの人生の荒波を即座に静めてくださることは中々ないかもしれません。でも、私たちが支え合い、祈り合って、それぞれの荒波を乗り越えていく。そのような交わりをキリストは私たちに与えてくださいます。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年6月17日 聖霊降臨後第4主日礼拝説教より 「想いを超えて」
(マルコによる福音書 第4章26節~34節)
「神の国」という言葉は少々誤解を招くかもしれません。国といいますと、何か限定された地域を想像しますが、そうではないんですね。聖書に記されている「神の国」は、「神が支配する状態」を表す言葉です。私たちの住む世界に目を向けた際、一見したところ何ら変化はないのだけども、世界をつぶさに見ていくと何かが違う。神さまの想いが反映された世界になっている。そのような状態が神の国です。もちろん先に神さまのもとへ旅立った兄弟姉妹が住む場所も「神の国」と言うのかもしれません。しかし、神の国は死後のことだけを指すものでは無いのです。
聖愛教会では、昨年から野の花の会が発足してたくさんの花が庭や玄関を彩っています。野の花の会のメンバーに限らず、皆さんが行う手入れのおかげで色々な花を楽しむことができます。その花を毎日見ていても、花の成長ぶりに驚かされることがしばしばあります。気がつくと芽が出ている。昨日まで確かに芽だったのに、気がつくと背丈が伸びて花が咲いている。あんな小さな塊である種から、こんなに軟らかく良い臭いのする花がなる。これは古代の人々に限らず驚くことだと思います。
からし種は本当に小さく、つまむのに難儀するくらいです。その種が成長すると鳥が巣を作るくらいの木になるのですね。びっくりです。それが神の国、神の支配する状態を表すのにぴったりだとイエスは言います。昨日までは皆殺伐としていたはずなのに、気がつくと皆が互いに愛し合う存在になっている。これもまた神の国が広がっていくイメージではないでしょうか。
神の国、神の支配は気がつけば多くの事柄をがらりと変えて行きます。私たちの想いを超えた神さまの業です。そして神さまの支配は常に私たちに命を与えてくださいます。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年6月10日 聖霊降臨後第3主日礼拝説教より 「目に見えないもの」
(マルコによる福音書 第3章20節~35節、特祷)
目に見えないはずのものが目に見えるとき、私たちはイエスを目撃した人々のように拒否反応を起こすかもしれません。自分が想像していた神の想いとは大きく違っているものを見るかもしれないからです。だからこそ、私たちは今日の特祷で祈ったように、「信頼と穏やかな心をもって、あなたに仕えることができますように」と祈るのではないでしょうか。
私たちはいつも、誰かに寄り添いたいと願います。一方で、悲しみの声が聞こえていても耳を背けることがありますし、目を瞑ってしまうこともあります。でも神さまはそうではありません。イエスさまがいつも社会から爪弾きにされていた人々と一緒にいたように、誰も聞いてくれない悩みに耳を傾けてくれたように、神さまは必ず風に舞っているかみを手に取ってくださる。そう信じるからこそ、「どうかこの世界がみ摂理の下に安らかに治められますように」と祈ります。
神の想いは私たちが想像するものとかけ離れているかもしれません。でも、だからこそ、何百億分の一の存在でしかない私たち一人一人を愛し大切に想ってくださるのではないでしょうか。逆説的ですが、私たちでは想像もつかない考えをお持ちだからこそ、米粒のような存在の私たち一人一人を心から愛してくださる。
この大きな恵みを受けて、私たちも、神のみ心を求めていきましょう。神の想いに触れるとき、私たちは隣人の心にも触れることができるのではないでしょうか。目に見えないものに目を注いでいきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年6月3日 聖霊降臨後第2主日礼拝説教より 「心から頼る」
(マルコによる福音書 第2章23節~28節、特祷)
十戒が与えられた時、人々は荒野を長年旅しており、いわば神さまに頼る以外ない状態でした。つまり神さまは、人々が大変な状態でも秩序だって互いに想い合って生きて行くことができるようにと、神を忘れることがないようにと、十戒を与えてくださったのでした。人々を愛しておられたからこそ、当時の人々に必要なものを与えられた。それが十戒であり律法でした。
福音書の時代にそれは別の形で示されました。十字架で死なれたイエスを復活させることで、死を打ち破るという形で、今を生きる私たちのために主は愛を示されました。私たちが生きるために必要なもの、死は終わりではないということ、そして、イエスが語られた言葉や示された業は神さまの想いであることを示されました。その中には、人が生きるに必要なときには、律法を越えることが許されるのだ、といったことが含まれていたのです。
今日の福音書でいえば、確かにイエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘むのは律法では許されないことでした。しかし、何日も食べていなかった。同じように私たちは一人ひとり抱えているものがあります。人生の旅路は、自分の力ではどうしようもないことが起こります。でも、主がいてくださることが支えになるときがあります。まさに今日の特祷、「神に寄らなければ強くまた清い者はありません」です。
先週の勧話の担当者は、「喜びも悲しみも人生の一部、そして神がおられる」と語ってくださいました。それぞれの人生を神さまが良しとしてくださる。そして、良いところも悪いところもある私たちを、主は良しとしてくださいます。「この世のものに心をうばわれず、常に永遠の賜物を失うことがないように」と祈りました。この世の価値基準に左右されることなく、私たちは神の愛という永遠の朽ちることのない賜物を失わないで、心から神さまに頼り生きて行きましょう。
(司祭ヨハネ古澤)