2022年10月30日 諸聖徒日 礼拝説教より
(マタイによる福音書 第5章1~12節)
本日は大阪聖愛教会に連なる全ての逝去者を憶えて祈ります。この日に毎年読まれるのが「山上の説教(垂 訓)」として広く知られている箇所です。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」という言葉から始まります。「心の 貧しい人」は直訳すると「霊において貧しい人」です。 「霊」とはその人の全存在を表す言葉ですから、自身が神に造られた、生かされている存在であることを知っている人であると言えるでしょう。一言でいえば、「心底 神を必要とする人」です。そして「天の国」とは「神が治める状態」のことです。誰の ”いのち” も軽んじられない、異なる存在が共に生きられる状態です。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す」とイザヤ書 第11章6節 では神が治める状態について描かれています。天国とはこのような場であるのかもしれません。
主イエスが語る「山上の説教」を耳にするとき、「ク リスチャンとはハードルが高い」と感じるかもしれませ ん。しかし、聖書を読んでいても目にするのは「何とか 主イエスのように生きよう」と模索する人たちの姿です。主イエスの一番弟子であるペトロもまた、なかなか 「主イエスのように」生きることができませんでした。 今日私たちが憶える方々も「主イエスに倣おう」と生き た方々です。それはイエスが弟子たちに示した「互いに愛する(大切にする)」生き方です。自分の力だけでは 中々できません。だからこそ、「心の底から神を求めた」のではないでしょうか。「ああ、わたしは大切にされたな」というご家族との出来事、ぜひ思い返してみてください。
(司祭ヨハネ古澤)
2022年10月23日 聖霊降誕後第20主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第18章9~14節)
本日の譬え話ではファリサイ派と徴税人が神殿で祈ります。ファリサイ派の祈りは「なんと傲慢な祈りか」と、徴税人の祈りは「美しい祈りだ」と感じるかもしれません。しかし、主イエスの時代・社会においてはそうではなかったようです。ファリサイ派の人が用いた祈りは、当時のラビ(宗教指導者)の一般的な祈りの形でし た。彼の祈りの内容をみると「さすがラビ」と当時の 人々は感心したことでしょう。一方の徴税人はローマ帝 国の下請けとしてユダヤ人同胞から税金を徴収する仕事 でした。ですから、ユダヤ人からすれば徴税人はローマの手先として動く「裏切り者」と見做されたようです。今日の譬えに登場した徴税人は同胞からお金を「巻き上げる」行為を心苦しく感じていたのかもしれません。彼の祈りのスタイルもまた一般的な形だったようです。
しかし主イエスは、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人(徴税人)だ」と言います。主イエスは他人を見下している人々に対して「自分こそが正しく、あいつらはだめな存在だ」と命に優劣をつけるとき、あなたたちは間違いを犯すよ、神から離れてしまうよ、と言います。しかし同時に、主イエスのこのメッセ ージは私たちにとって大きな喜びです。たった一言の祈 り「罪人の私を憐れんでください」という徴税人の祈りは、私たちの目にはとても小さく映るかもしれません。 しかし、どれほど小さな祈りであっても、誰の祈りであ ってもキリストは聞き届けてくださるのですから。主は命に優劣を付けない方です。「私の目にあたなは価高く、尊く」(イザヤ43:4)とある通りです。
(司祭ヨハネ古澤)
2022年10月9日 聖霊降誕後第18主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(ルカによる福音書 第17章11~19節)
本日の福音書箇所は、主イエスが思い皮膚病を患っている十人の人を癒やす、という有名な箇所です。主イエスに癒やされた十人の患者のうち、神を賛美しながら主イエスの許に戻ってきたのは一人のサマリア人だけでした。主イエスは言います。「清くされたのは十人ではな かったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないの か」。
私たちはこの箇所をどのように読むでしょうか。この箇所から神を賛美することの大切さを見るでしょうか。 もちろんそれは重要なことです。病を癒やしてもらったのに、お礼すら言いにこない九人はダメなやつだ、と言うでしょうか。しかし、今まで彼らは病であるが故に自分の家族やコミュニティから断絶されていたのです。病が癒やされたため「これでやっと家族に会える」との喜びが彼らを自分の家族の許へ急がせたとしても、誰が彼らを責められるでしょうか。
以上のことはそれぞれが大切な事柄ですが、私たちはこの物語から文字通り「全ての人を大切にされる神」の姿を見ないでしょうか。当時、神の救いから外れていたと見做されていたサマリア人。しかし、他の九人と同じ ように(他の九人がユダヤ人かサマリア人かはわかりませんが)その人も神の働きを受けました。「神は人を分け隔てなさらない」(使徒10:34)方です。それは私たちにとって大きな喜びです。そしてキリストに倣い生き ようとする私たちにとって心に留めたい事柄です。
(司祭ヨハネ古澤)