2021年9月26日 聖霊降臨後第18主日拝説教より
(民数記 第11章4~6節、10~16節、24~29節 / マルコによる福音書 第9章38~43節、45節、47~48節)
1995 年に起きた「地下鉄サリン事件」以降、教団・教派がどのようなものであれ「宗教」に対して忌避感を持つ人が多くなったと言われています。20 年近く前になりますが、父の葬儀が聖ルシヤ教会で行われまして、教会に足を運んだことのない親戚も多数集まりました。私より一回りほど上ですから当時 30 代半ばの親戚などはとても緊張しており、教会の中へ入ることにとても抵抗が あったようでした。「取って食われると感じているのかな?」と真面目に考えてしまうほどに、そ の方の緊張は強いものでした。当時のその光景を思い出しますと、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」との主イエスの言葉は、 教会に理解を示してくれる人の大切さを表しているな、とつくづく感じます。
「一杯の水」。私たちにとって一杯の水は大した価値はないかもしれません。特に日本ではほとんどの場所で水道水を飲むことが出来ますから。しかし他国では事情は異なりますし、何より二千年前のパレスチナ地方です。共同の井戸に水を汲みに行く必要がありましたし、一家で仕事をしますから、そう頻繁に汲みに行けるわけではありません。そのような意味で「一杯の水」はそれなりに貴重なものです。主イエスの言う「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」とは、主イエス の弟子をある程度受け入れてくれる存在、という意味でしょう。視点を変えれば、「あなたがたの働きは自分たちだけでは成し遂げられないのだよ」とのメッセージでもあります。
主イエスと行動を共にする弟子たちは、ある種の特権意識を持っていたようです。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と弟子のヨハネが言います。しかし主イエスは「やめさせてはならない」と言います。こう仰った理由も先ほどのメッセージにあるように思います。福音宣教は弟子たちだけで成し遂げるものではないわけです。
今日の旧約聖書に目を向けますと、約束の地へと同胞を導くモーセの苦悩が描かれています。とても重い役目を一人では担いきれないというのです。主は七十人の長老に霊を授けて預言者とされます。そのことに反対するヨシュアにモーセは言います。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」。
時間は下り、今の教会。私たちは今日の福音書と旧約日課から学びます。教会は教会だけの働きで福音宣教を行う必要はないということ。「教会外」で教会の働きに理解を示してくれる人々と歩 むことも選択肢としてあること。そして、教会の働きは一部の信徒だけで担う必要はないこと。こ の二つです。
来月末には逝去者記念礼拝(諸聖徒日礼拝)が予定されており、その案内作成を教会委員さんが 進めてくださっています。しかし、その作業も委員さんの力だけではできません。案内先について 信仰の先輩方から確認や助言を受けながら進めておられます。一つの礼拝を行うだけでもやはり多くの協力が必要です。
福音宣教。主イエスがされていた働きです。私たちの目的はこの一点であり、礼拝や教会の働き(BS や自助グループのホール利用など)を通して福音宣教を行っています。私たちは多くいてもキリストを頭とした一つの体であることを覚え、文字通り共に福音を宣言していきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年9月19日 聖霊降臨後第17主日拝説教より
(マルコによる福音書 第9章30~37節)
釜ヶ崎のふるさとの家では月に一度誕生会が開かれます。今はコロナのこともあり、開催できたりできなかったりのようですが、誕生会はゲームをしてお菓子やタバコなどの景品が貰えることもあり、利用者のおじさん・おばさんたちに人気のプログラムです。ボランティアにジャンケンで勝つと景品がもらえるゲームでは(ボランティアに勝つまでジャンケンができるのですが)、景品をもらう時、おじさんたちは「ありがとうございます」とボランティアにお礼を言ってくれます。ある日の誕生会で、ボランティアにお礼を口にするおじさんたちを見て施設長がこう言いました。「みんな私らにお礼言うてくれてるけど、ほんまに感謝せなあかんのは、このお菓子とかを送ってくれた人へやからな」と。お菓子やタバコを景品としておじさんたちに手渡しているのは、ボランティア や職員です。しかし、その品物を「利用者のために」と送り届けてくれている人がいる。その人た ちの姿は見えないけども、本当に感謝しなければならないのは、その人たちに対してだ、というわ けです。そして、施設長のこの言葉はボランティアとして前面に出ている私に対する言葉でもあり ました。利用者のおじさんたちに直接お礼の言葉を受けていると、自分が何か良いことをしているように感じます。しかし、「あんたはただ送られてきている物を渡してるだけやねんで。勘違いしたらあかんで」というわけです。
主イエスと行動を共にする弟子たちは「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と福音書は 語ります。弟子たちはおそらく、主イエスがユダヤ人の王になると期待していたでしょうから、自分たちの誰が主イエスの右と左に座るに相応しいか、と話し合っていたのかもしれません。また、 5 千人の人に主イエスの手から受け取った食事を配った際に、人々か感謝を受けて自分が偉くなったと感じていたのかも知れません。しかし、主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と弟子たちに釘を刺しました。王は「全ての人に仕えられる者」ですが、そうであってはならないと言うのです。
「すべての人に仕える者」。それはいついかなる時も私たちの背後で支えてくださる神さまの在り方です。時に私たちを導き、時に私たちを通して働かれるあの方です。主人の足を洗うという奴 隷の仕事を、自分の弟子に対して行った主イエス。それが「すべての人に仕える者」の姿です。「すべての人に仕える者になりなさい」との一言は、「私に倣う者になりなさい」、との意味でもあるのでしょう。そして、「どのような時でも、あなたの背後で働いて下さっている方がいることを忘れてはいけないよ」とのメッセージではないかと思うのです。
私たちの生活は多くの人に支えられて成り立っています。コロナ禍にあってその事実が浮き彫りにされました。私たちの生活を支えて下さっている多くの人に感謝すると共に、その人々を覚えて祈ります。そして、私たちの生を支え導いて下さっている主イエスに感謝と賛美を献げます。また 常日頃、私たち兄弟姉妹が互いに祈り合っていることを覚えたいと思います。 使徒聖パウロの言葉を思い出します。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を 注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(コリントの信徒への手紙二 第4章18節)。私たちの社会でも、また私たちの交わりでも、何より私たちの人生でも、私たちの背後で裏方で支えて下さっている存在・働きを忘れることなく、歩みましょう。そして私たち自身もそ のような一人であることを覚えましょう。あなたを通して主が働いておられます 。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年9月12日 聖霊降臨後第16主日拝説教より
(イザヤ書 第50章4~9節)
特定19 特祷
「神 よ、あなたによらなければわたしたちはみ心にかなうことができません。どうか何事をするにも、聖霊によってわたしたちの 心を治め、導いてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン 」
神さまのみ心を知るため、人間はずっと聖書に耳を傾け、祈ることで神さまの声に聞こうとして きました。その長い歴史においては、度々間違いも犯してきました。しかし、それでも私たちの 信仰が教会が歴史から消えることがなかったのは、私たち人間が少しずつでも神のみ心に沿って歩むことができているからではないでしょうか。
人々が主イエスのことを「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」という中で、主イエスの弟子であるペトロは「あなたは、メシアです」と告白しました。これはペトロ個人の意見と いうよりは、弟子を代表しての言葉でしょう。マタイ福音書の同箇所では、主イエスはペトロに 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたし の天の父なのだ」と返答しています。つまり、弟子を代表してのペトロの答えは間違いではなかったのです。しかし主イエスは「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められ た」と聖書は語ります。
正しい返答をしたはずなのに、なぜ主イエスは弟子たちを戒めたのでしょうか。それはペトロをはじめ弟子たちが、主イエスに「付き従う」ことが欠けていたからのようです。弟子たちは、主イエスがメシアであることは分かっていましたが、その「メシア」がどのようなものなのかを理解していませんでした。このことは、主イエスがご自身の受難を予告したときにはっきりと示さ れました。聖書には「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」とありま す。このことを耳にしたペトロは主イエスをいさめます。「そんなことがあってはなりません」と いうわけです。そのようなペトロに主イエスは言います。「サタン、引き下がれ。あなたは神のこ とを思わず、人間のことを思っている」。
本日の特祷で私たちは「神よ、あなたに寄らなければわたしたちはみ心にかなうことができませ ん」と祈りました。私たちは常日頃から主イエスと一緒に歩みたい、主イエスが教えられたように生きたいと願い求めています。もちろん、時には自分の思いだけで心が染まることもありますが、どこか頭・心の隅に「主イエスと一緒に」との思いを抱いています。しかし、それすらも神さまの助けが、導き・支えが必要であるのだと今日の特祷は示しています。
それもそのはず、み心にかなうことが何であるかを主イエスはこのように言います。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。「自分を捨てる」とは「自分を優先しない」ということです。何があっても神を信頼すること、それが主イエ スに従うこと、み心にかなうことであると言います。なるほど、私たちがみ心にかなうために は、神さまの助け・導きが必要であるわけです。
まだ次男が 2 歳だったとき、ショッピングモールに次男と買い物に行きました。買い物ができる時がその日・その時間しかなく、とにかく慌てていたことを覚えています。必要なものを探しに次の売り場へ移動しようとした際、次男が移動をぐずりました。少し離れた場所におもちゃ売り場があったのです。次の予定と買い物のことで頭がいっぱい、そして買い物の荷物で片手はいっぱいの私は、ぐずる次男をもう片方の手でなんとか引っ張っていこうと必死になっていました。 険しい顔つきをしていたと思います。通りすがりの男性が、「大丈夫ですか」と声をかけてくださり、はっと我に返ることができました。男性にお礼を言い、落ち着いて次男に声をかけ次の売り 場へ向かうことができました。
とても小さな物語ですが、私が救われた出来事です。声をかけてくださった男性、次男のことを心配してくださったのでしょうし、もしかしたら私のことを気に掛けてくださったのかもしれま せん。しかし、私に声を掛けるのにも少なからず勇気も必要だったでしょう。「あぁ、あの子・あ の人、大変やな」と思いながら通り過ぎることもできたわけです。自分のことを後にして、私たち親子に手を差し延べてくれた。これも主に従う一つの形であるというのは、言い過ぎでしょうか。
本日の旧約聖書には、預言者イザヤの言葉に希望を受けた無名の預言者(たち)である、第2イ ザヤと呼ばれる預言者の言葉が読まれました。その冒頭には「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる」とありました。
第2イザヤは、捕囚の地バビロンから故郷であるユダへの帰還が主のみ心であり、そのことを民に伝えます。しかし捕囚の地で過ごし半世紀が経っています。民は世代交代が起こっており家族も増えています。人々は第2イザヤの声に耳を貸しません。そのような中での第2イザヤによる 告白です。 主の弟子として与えられた舌は、疲れた人を励ますように主が言葉を紡ぎ出してくださる。与えら れた耳は毎日子として聞き従うようにしてくださる。そのように第2イザヤは言います。全てが神さまから与えられているのです。主の弟子であることすらもです。そして、主の弟子としての 私たち。私たちが語る言葉は、人々を励まします。それは小さな励ましかもしれません。しかし そのことは起こるのです。そして私たちも、誰かを通して主の励ましを受けます。主イエスに従 い続けるとは、主イエスの十字架と復活の出来事をしっかりと受けとめ、従うことを良しとしてくださっている神の恵みに全身を向けることなのではないでしょうか。そのように感じるのです 。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年9月5日 聖霊降臨後第15主日拝説教より
(イザヤ書 第35章4~7a節、マルコによる福音書 第7章31~37節)
本日の福音書は、いわゆる癒やしの奇跡物語です。主イエスは人びとの連れてきた「耳が聞こえず舌の回らない人」を癒やされます。主イエスがその人に触れ、指をその人の両耳に入れ、唾をつけてその人の舌にふれ、「エッファタ(開け)」と言うと、「たちまち耳が開き、舌のもつれが 解け、はっきり話すことができるようになった」と聖書は語ります。
その人にとって、またその人を連れてきた人びとにとって、まさに奇跡であり言葉に表せない 喜びの出来事だったでしょう。病や障がいは、当人やその先祖が罪を犯した報いであると考えら れていました。そのため、当時は病や障がいからの解放は同時に、罪人というレッテルからの解放を意味しました。主イエスに癒やされたその人にとって、他者の言葉が聞こえ、また他者に話すことができるようになったことは、喜びに加え罪人と見做されなくなること、もっと言えば自らが自分を罪人と見做さなくてよくなることは、大きな救いであったろうと思います。
それほどに大きな出来事でしたから、主イエスが「だれにもこのことを話してはいけない、と 口止めをされた」にも拘わらず、「人々はかえってますます言い広めた」ことにも納得がいきます。私たちも誰かが病に伏せば心配する気持ちを共有しますし、病から回復すれば喜びの報せを分かち合います。また、病の回復が難しい手術を伴うもの、新しい薬を用いたものであれば、手 術を行った病院や医師、薬の名称も併せて伝えます。そして、友人が回復した人と同じような病に伏したなら、その病院や医師のことを教えてあげます。
今日の福音書の人びともそうだったでしょう。耳が聞こえず話すことができなかった人が、耳 が聞こえ話すことができるようになったのです。預言者イザヤの言葉が人びとの目の前で起こったのですから。人びとの「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」という驚きの声は瞬く間に広が ったことでしょう。
しかし、そこには危うさがありました。今日の特祷に記されている危うさです。今日私たちは 「主よ、どうか主の民に世と肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵みを与え、清い心と思いをもって、唯一の神に従うことができますように」と祈りました。「世と肉と悪魔との誘惑に打ち勝つ恵み」 とは何でしょうか。パッと頭に浮かぶのは、主イエスが宣教を始める前に受けた悪魔からの誘惑の場面です。それは生きる手段に関する誘惑、神さまを試すことで神さまを従わせるという誘惑、この世の栄華と引き換えに悪魔に従うことへの誘惑でした。 主イエスのなさった癒やしの業を知った人びとは、「この方のなさったことはすべて、すばらし い。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 と言いました。これは穿った見方かも知れませんが、彼らは神を賛美するのではなく、主イエス のなさったことに焦点を合わせています。
主イエスのなさった癒やしだけを見ているのです。そこに悪魔の誘惑が働きます。「あなたが神ならこの人を癒やしてくれるはずだ」と神と駆け引きをしたくなる誘惑です。主イエスが十字架にかけられたとき、人びとは言いました。「お前が神なら 自分を救ってみろ」と。言っていることは同じです。もちろん愛する人が病に伏しているとき、今にも命の明かりが消えそうなとき、「神さまこの人を癒やしてください」と私たちは願い祈りま す。しかしそこで私たちは誘惑を振り払います。それは「あなたが本当におられるなら」と神を 試すことへの誘惑です。私たちは主イエスがゲッセマネの園で祈られた祈りを思い出します。「こ の杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが 行われますように」との祈りです。私たちは、たとえそれが愛する人の回復を願うときでも、「御心であれば」と祈ります。
教会に馴染みの無い方からみれば、とても冷たく感じるかもしれません。しかし、私たちがど のようなときも「御心であれば」と祈るのは、神に全幅の信頼を置いているからであり、祈りを もって自分にできる限りのことをしているからです。
そして神が私たち一人一人をどれほど大切に思って下さっているかを知っているからです。逆に神への不信感があれば、つまり自分の置かれている状況があまりにも辛く、誰も自分の声を聞 いてくれない、誰からも「大丈夫?」と自分を心配してくれる声が聞こえない状況であれば、神の愛を信じることができないかもしれません。その人は、自分の耳が聞こえず、舌がもつれてい るように感じるのではないでしょうか。そのような状態を癒やすことができるのは主イエスの他ありません。それは、今日の特祷で「清い心と思いをもって、唯一の神に従うことができますよ うに」と祈る私たちに託されたことでもあります。多くの人が神の愛を知る。それは私たちが隣人を大切にすることです。他者の声を聞き、他者に声をかけることです。それは、心からの信頼をもって、心からの喜びも不安も神に話すことが出来る、神への信頼を土台とします。
私たちを常に導いてくださる主に全幅の信頼をおいて、この一週間を共に歩みましょう 。
(司祭ヨハネ古澤)