牧師の小部屋 ⑰
「1990年と2023年」
今年の6月に「渇水」という映画が上映されました。生田斗真さん主演、とある地方自治体で働く水道局職員の話です。原作は河林満さん(2008年に52歳で逝去)が1990年に発表し、同年の文学界新人賞を受賞した同名の小説です。映画は希望が見える終わり方ですが、原作では異なります。主人公は料金未納の家庭の停水執行(特殊な棒で止水栓を閉めて水道水の供給を停める)を担当している水道局職員で、ある小学生姉妹が住む家の停水を行った後、痛ましい事件が起こるまでを描きます。
1990年はバブル崩壊の年ですが、その影響が社会全体に広がる直前です。そのようないわゆる「好景気」のピーク時にあって、河林さんが描いたテーマは特殊に見えたかもしれません。しかし、立川市の水道局職員を14年間務めた河林さんにとっては特殊ではなかったのです。
「渇水」は、もう33年も前の小説です。しかし、そこで物語られる、水道が停められる様々な理由や、葛藤しながら停水執行を行う主人公の姿は今の時代を映し出しているように感じます。受賞当時この小説は「古風」であると評されたそうです。しかし30年経ったいま、「貧困が拡大してようやく、自分たちがいま生きている社会が描かれていると実感できるようになった」のではないかと解説者は語ります。河林さんは33年前の「好景気」時代にあって、声なき人の声を聞いていたのかもしれません。映画版では、主人公が少しだけ姉妹の声に向き合えた結果、その姉妹は児童相談所に迎えられます。小さな声に向き合うことで大きな変化が生まれる象徴のようです。それは主イエスの生き方です。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑯
「オリエンテーションと信仰」
「オリエンテーション」という言葉があります。辞書には「ものごとの進路・方向を定めること。また、それが定まるように指導すること。」と記されています。もともとは教会用語でした。オリエンスは「東方」、つまりヨーロッパからみて東ですから中近東を指しますが、本来は「昇る」という意味のラテン語だそうです。「昇る」とは何が昇るのかといえば「太陽が昇る」こと。そこから東の方角も意味するようになったそうです。 聖堂の中心は「聖卓・祭壇」と呼ばれるあのテーブルです。聖愛教会の祭壇は40年ほど前まで壁にくっついていました。ですから司祭は壁の方を向いて、会衆にお尻を向けて司式をしていました。これを「東面式」と言います。この聖堂はほぼ東を向いています。そのように設計されたのだと思います。しかし、もしこの聖堂が西を向いて建っていたとしても、教会では教会堂は東を向いていると考えます。実際、戦後に聖愛教会が建てられたとき、聖堂は西を向いていました。しかしそれでも東を向いていると考えられました。それほど「オリエンス=東」は教会にとって、いえキリスト者にとって大切なことなのです。
オリエンテーションの本来の意味は、教会堂を東に向けて建てることを意味しました。そこから、私たちの心を正しい進路へ向かわせることも含めるようになったのです。この聖堂での礼拝が、これからも私たちの信仰を正しい方向へ導くものでありますように。一日一日をキリストと共に歩むことができますように。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑮
「扉をたたくキリスト」
「扉を叩くキリスト」という絵があります。多くの画家がこのテーマで描いており、家の前に立つキリストが扉をノックしようとしている姿があります。しかし絵をよく見てみると、キリストが叩こうとしている扉にはドアノブがないことがわかります。つまりその家の住人が扉を内側から開けないと、キリストを家の中に迎え入れられないという絵です。
私たちは復活の出来事を知っていますが、それは知識として知っているのでしょうか。それとも実感としてでしょうか。弟子たちと同じように、私たちは大きな希望を受け取っています。しかし、受け取ったものが希望となるか得体の知れないものであるかは、私たち自身に委ねられています。
教会の大切な働きは、全ての人に手渡されている希望を、それが希望であると伝え続けることではないでしょうか。復活の朝に墓を訪れた女性たちは、天使の一言で主イエスがご自分の死と復活を予告されていたことを思い出しました。と同時に、主イエスが語られた多くのことや主イエスがなされた癒やしの業が真実であったことを悟ったことでしょう。神さまによって主イエスは起き上がらされたわけですが、そのことを知った女性たちもまた、悲しみの淵から起き上がらされました。悲しみは消えるわけではありませんが、悲しみを包み込むほどの希望が与えられていることに気づき、その希望が生きる力へと変えられることを女性たちは知りました。それが復活の出来事。復活がもつ大きな力です。
復活は大きな希望であると共に大きな謎です。まずは復活のイエスを受け入れてみませんか。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年8月6日 主イエス変容の日主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第9章928~36節)
「何を語り、何を語らないか」ということは併せて一つのメッセージです。神さまは主イエスの弟子たちに必要最小限のことを 告げました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9:35)。これ以外のことを神は告げませんでしたが、それは最も重要なこと でした 。
「これに聞け」の「聞け 」とは「聞き従いなさい」や「傾聴しなさい」という意味合いです。使徒書でペトロは「どうかこの預言の言葉に留意していてください 」と告げますが、 聖書に出てくる「 言葉ロゴス 」 は「筋道を立てる」を意味する語です。つまり、 預言の言葉、主イエスの言葉は私たちの生き方を方向付けるものであるわけです。
主イエス変容の出来事のとき、主イエスはモーセとエリヤと共に「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」( 31 節)と福音書は語ります。「最期」と訳されている言葉は「エクソドス」、「旅立ち」や「出発」を意味する言葉 です。主イエスの十字架の出来事は旅立ちの出来事でした。それは主イエスが救い主であると信じる人々が復活のキリストと共に 歩む、神の国へ向けての旅立ちです。
主イエスの十字架での死と復活の出来事の後、弟子たちは主イエスが語ったこと、つまり神の国の到来=福音を人々に告げ知らせ、人々の声を聴き、主イエスがされたように人々を癒やし まし た。もちろん彼らの福音宣教は順調な道程ではなかったでしょ し、多くの場合失敗と言えるものだったでしょう 。
しかし、実りは確かにありました。私たちの感覚でいう費用対効果でいえば働きの割に合わない実りだったかもしれ ません。しかし、それは確かに大きな喜びを伴った 実りでした。 互いに大切にしあう愛し合う交わりが 確かにあり、その 交わりを通して癒やしの業が起こり、共に喜び共に泣く。教会が大切にしている実りであり、人を生かす実りです。
(司祭ヨハネ古澤)