牧師の小部屋 ㉙
先週、聖書の集いで遠藤周作の「沈黙」が話題にあがりました。「沈黙」は二度映画化されています。最初は1971年に篠田正浩監督によって、そして2016年にマーティン・スコセッシ監督によって。
「沈黙」は江戸時代初期に起こった切支丹弾圧時の物語です。ローマ教会はポルトガルのイエズス会宣教師が日本で棄教したとの報せを受けます。そして棄教した宣教師のことを知る司祭たちは調査のために五島列島に赴きますが、その一人ロドリゴ神父も捕らえられクリスチャンである村民たちが拷問を受ける横で棄教を迫られます。ロドリゴ神父は断腸の思いで、しかし村民の命を救うためにも踏み絵に足をかけるのでした。
踏み絵を踏んだ、つまり棄教した司祭としてロドリゴ神父は「転びのパウロ」と揶揄されるようになります。しかし神父は自身の神への信頼が一層深くなったことを実感するのです。一人このように語ります。「今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」。小説はロドリゴ神父が葬られた時の覚書で終わります。スコセッシ監督はロドリゴ神父のモノローグを削り、棺に入れられたロドリゴ神父の手にロザリオを握らせることで神父の信仰を表現するのでした。私たちの信仰はどのような形で表されるでしょうか。誰の目にも信仰深く映るものでしょうか。しかし、ロドリゴ神父のように内に秘められた神への信頼もまた、土深く根付いている信仰であるはずです。
踏み絵に足を置いたときのことを、神父は回想することで読者に伝えます。神父とキリストによる、たった一言ずつの言葉が交わされるとても印象的な場面です。「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉘
【聖木曜日のメッセージより】
現代を生きる私たちが自分以外の人に足を洗われることはあまりありません。赤ちゃんや幼少期でのお風呂、もしくは怪我や障がいで体が動きづらくなったとき、あとは年を重ねて介護が必要になったときなどでしょう。しかし、洋の東西を問わず人びとは他人から足を洗われていたようです。日本でも旅人が旅籠で足を洗われる情景が落語などでしばしば語られます。旧約聖書でも旅人をもてなす家の主人が召使いに命じて水を用意させて足を洗わせます。主イエスの時代も人びとは日常的に他者から足を洗われていました。しかし、足を洗うのは奴隷の仕事でした。少なくとも自分より目上の人に足を洗ってもらうことは皆無だったでしょう。
しかし主イエスは弟子たちの足を洗い続けます。そして弟子たちに「互いに足を洗い合わなければならない」つまり、「互いに奴隷の仕事をしあわなければならない」と言います。もちろん弟子たちに向かって「奴隷の身分になるように」と言ったわけではなく、「互いに仕え合うように」という主イエスからのメッセージです。それは、主イエスの生き方に倣うようにとのメッセージです。
主イエスの洗足の究極の形、主イエスの言う仕えることの究極は十字架の出来事です。十字架はしかし、命の源である神によって処刑道具から命の象徴へと変えられました。復活の出来事によってです。そして思い返せば、主イエスがなされた一つ一つの業が、その人びとを回復する出来事であったことに気づきます。その人がその人として生きて行くことへの回復、言い換えれば復活の出来事でもありました。
足の汚れを取る行為である洗足。長い旅の途中、一晩の休息を取る前の行為である洗足。一日の仕事を終え、家に帰りほっと一息を着く前の洗足。互いに足を洗い合うこのことは、私たちの日常に復活の出来事を引き起こします。それは小さな出来事かもしれません。しかし、仕え合うその先に、私たちはキリストの働きに参与している自分に気づくはずです。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年5月12日 大斎節第7主日 礼拝説教要旨
(ヨハネによる福音書 第17章11c~19節)
今日の聖書に登場したマティアは不安を感じたのではないかと思います。使徒言行録に「二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった」とありました。主イエスの時代、くじ引きは神さまのみ心=神さまがこうあってほしいと思っていることが示されるものだと考えられていました。だから、主イエスの弟子たちはもう一人リーダーを立てなきゃいけなかったので、くじ引きをしたわけです。
弟子たちはくじ引きをするにあたって、二人の候補をたてました。「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティア」です。ヨセフという人物はあだ名が二つもあったようです。「バルサバ」そして「ユスト」。本名はヨセフでした。そしてマティアが候補でした。当時、あだ名が多いということは、その人が有名な人だったことを表します。そして有名な人がリーダーになるのが常でした。ですから、恐らくマティアは自分ではなくヨセフが選ばれるだろうと考えていたのではないでしょうか。くじ引きですから、神さまが二人のどちらかを選ぶわけです。であるならば、マティアは自分ではなく有名なヨセフが選ばれるだろうと考えていたでしょう。しかし、神さまはマティアを選ばれました。マティアをリーダーへと導いたわけです。
残念ながら、その後マティアがどのような活躍をしたか聖書には記されていません。しかし、伝説によればその後マティアは、エルサレムからエチオピアまで宣教し、エチオピアで殉教したと伝えられています。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年5月5日 大斎節第6主日 礼拝説教要旨
(ヨハネによる福音書 第15章9~17節)
皆さんご存知のように、使徒聖パウロはその初め、まだサウロと呼ばれていた頃、彼はキリスト者を迫害することに熱心でした。しかし、あるときキリストがサウロに呼びかけます。「サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた」と使徒言行録(9章4節)は証言しています。そして、キリストは弟子アナニアを通してサウロを導き、サウロは熱心なキリスト者へと変わって行くのでした。 しかし、キリストの弟子の中に加わろうとしたサウロは、ずっとキリスト者を迫害してきたサウロです。弟子たちはサウロのことを信じることができず、彼を恐れました。サウロの受け入れをイエスの弟子たちが拒否していた際、唯一バルナバはサウロを理解し彼を弟子たちの許へ招きいれました。「しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。」(使徒言行録9:27)とあります。
自分がしてきたことの報いとはいえ、悔い改めた自分が受け入れて貰えない。このような状況下でバルナバだけは自分を信じて受け入れてくれた。自分のことを理解して信じてくれる人が一人いる。0か1かは大きな違いです。 サウロにとってバルナバは 慰めであり勇気づけられる存在であったでしょう。
イエスの愛に留まることはイエスの愛から離れないことを選ぶことです。しかし、イエスによるサウロの導きに目を向けるとき、イエスの愛に留まることは、この私を選んでくださったイエスに心からの信頼を寄せることであるとも言えそうです。
(司祭ヨハネ古澤)