2021年10月31日 聖霊降臨後第23主日拝説教より
(マタイによる福音書 第5章1~12節)
今の時代にあって、信仰を持つことは弱い人間であると捉えられることがあります。私はそれで良いと思います。なぜなら人は弱いから。それを認めて、素直に受け入れて生きる。人間を超越した存在に頼りながら生きる。そのことは人を本当の意味で強くします。
「心の貧しい人々は、幸いである」は直訳すると「霊において乞食である者たち」です。この「心」と訳され た「霊」、ギリシア語の「プネウマ」はヘブライ語では 「ルーアッハ」で「霊」の他に「風」や「息」を意味する単語です。そしてもう一つ、「息」を意味する言葉に 「ネシャーマー」があります。旧約聖書の2章に神が人をお造りになる場面が記されています。このようにあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。ここで命の息と訳されてい る言葉です。
私たちは土の塵から神の似姿に形取られ、神の息つまり神の霊によって生きる者とされました。主イエスが語る「霊において乞食である者たち」とは、自分の命は有限であると認識している人、神に造られた存在であり、 生かされている存在であることを知っている人であると言えるでしょう。自分が限界を持つ存在であることを知っているからこそ、より豊に生きるために神の支えが必要であることを知る。それが「霊において乞食である者たち」ではないかと思うのです。
人は死ねば体は土に帰ります。その意味において、神が土の塵で形作ったという聖書の人間観、人間の捉え方はあながち間違いではないでしょう。そして死んだ人はそれで終わりではなく、神の許で生きる。そして神の国が完成するとき、神の許で生きる人々は復活し、地上で生きている人々と相まみえる。そのように聖書は語ります。
塵で作られた存在であるがゆえに弱い私たち。先人たちもそのことを認識していたでしょう。だからこそ信仰を持ったのではないでしょうか。私たちも人生の旅路において傷つきますし、愛する人の死を経験することで悲しみます。その思いを否定する必要はありません。しか し一方で、その経験が他者を癒やす力ともなることを覚 えたいと思います。「傷ついた癒やし人」という本を書いたヘンリー・ナウエンは、傷ついた経験をした人こそが他者を癒やすことができるのだ、と言います。
もちろん最大の癒やし人はキリストです。今日の使徒書、ヨハネの黙示録はこう語ります。「玉座の中央にお られる小羊が彼らの牧者となり、/命の水の泉へ導き、/神が彼らの目から涙をことごとく/ぬぐわれるからで ある」。
神の御許へ召された人々は、神によって目から涙をことごとく拭われます。地上での旅路を続ける私たちは、神に支えられていることを知りながら、互いに喜びを分かち合い、哀しみを慰め合いながら歩んで参りましょ う。先に召された、愛する人々と相まみえるその日まで 。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年10月24日 聖霊降臨後第22主日拝説教より 於:大阪城南キリスト教会
(マルコによる福音書 第10章46~52節)
聖書の時代にあって、目が見えないということは、自力で生きてはいけないことを意味しました。「物乞いをしていた」と福音書にありますが、正確には「物乞いをしないと生きていけなかった」わけです。主イエスは癒やされたバルティマイに「行きなさい」と言いますが、 これは「家に帰りなさい」の意味でしょう。目が見えな かった、もしくは目が見えなくなったために、バルティ マイは家族と暮らすことが出来なくなったのです。その ことも主イエスはご存知だったでしょう。だからこそ、「私に従いなさい」ではなく「行きなさい、家族の許 へ」とバルティマイに勧めました。主イエスの癒やしは、分断されていた家族を修復させたのです。しかし、 バルティマイはイエスに従う道を選びました。
主イエスが町に来たことを知ったバルティマイは 「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びました。その叫びは徐々に大きくなります。聖書において叫びとは祈りです。出エジプト記第2章23節 には「そ の間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。」 との一節があります。他にも民の叫びが神に届いたとの記載は至るとこにあります。バルティマイの叫び、祈りを主イエスは聞きました。「憐れんでください」との声を主イエスは聴いたのです。その主イエスは一方的に何か働きかけをするのではなかく、まずバルティマイに尋ねました。「何をしてほしいのか」。これは言い換えれ ば「あなたに必要なものは何」との問いかけでしょう。それはバルティマイにとって見えるようになることでした。たった一つ、見えるようになることでバルティマイは彼自身として生きて行けるのです。
釜ヶ崎で今もおじさんたちの散髪を続けている本田神父は言います。まず相手を理解することが大切であり、理解する「Understand」は下に立つと書く。相手と対等ではなく一段下に立つ。そうすることで今この社 会に必要なことを教えて貰える、と。
私たち一人一人を理解しようとしてくださるキリストは、十字架という低みに立たれました。自身が呼ばれたことへの喜びから召命を感じたバルティマイは、主イエスに従いました。彼もまた多くの人の声を聴く、そのような働きをしたことでしょう。
キリストは私たちの声を祈りを聴いてくださる方で す。そして私たちもそのようなキリストに答えましょう。多くの声を聴くことはできずとも、近くの人の声 を、またニュースで知る人の声をも。キリストは今も私たちの隣で一人一人の声に、叫びに、祈りに耳を傾けて下さっています。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年10月17日 聖霊降臨後第21主日拝説教より
(マルコによる福音書 第10章35~45節)
時にわたしたちは「〜人は○○だ」と国籍で国民全体を判断してしまうことがあります。「日本人は出っ歯でカメラを首からぶら下げている」と言われていた時代があったようですが、それも観光している「日本人の誰か」をたまたま目にした人の表現ですよね。そのような姿をよく目にしたのでしょうけど、やはり当時の日本人全員がそうではないわけです。それと同じで、私たちは 「〜人」という枠だけではなく、その人個人に目を向けたいのです。「〜人は○○だ」は、一言で言えば偏見と言えます。その偏見は国籍だけでなく様々な場面で目にします。「あの人は○○だから」。私も言われたことがあります。「あの人は牧師やから仲良くなられへん」。グサ ッときました。
イエスさまと弟子たちは共に旅をしていましたが、目指す地点は徐々に離れていきます。受難への道を歩むイエスと、栄光への道を歩んでいると考える弟子たちで す。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と語る二人の弟子と、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と答えるイエスには大きな隔たりがありました。
それは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」というイエスさまの一言からも伺え ます。イエスさまが歩む道は間違いなく神のみ心に適う道です。しかし、それは弟子たちの考える権力者への道ではなかったわけです。イエスさまの歩みは、命令する者になる道ではなく、全ての人の声を聴く者への道でし た。
受難への道中、私たちが知っているように、イエスさまは病人の声を聴き、障がい者の声を聴き、富裕な青年の声を聴き、自分に敵対する人の声を聴きました。時にその人の望み通り病を癒やし、時にはその人の意に沿わないアドバイスをしました。しかし、それはどちらもその人を救うための業でした。 私たちはどうでしょうか。私の声を聴いてくださっている、と感じるでしょうか。何も聴いてくださらない、 と感じるでしょうか。自分の思い通りにはならなかっ た。しかし、キリストは私に最も良い道を示してくださ った。このように感じることができたら、どれほど素晴らしいでしょう。
「〜人」でなく「あなた」として声を聴いてくださる キリスト。私たちも人を国籍や所属で接することなく、 一人の人として「あなた」として出会っていきましょう。私たちのために受難の道を歩まれたキリストです。「あなた」に出会うために歩まれた。この大きな喜び。 共に分かち合い、この主日、そして一週間を過ごしまし ょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年10月10日 聖霊降臨後第20主日拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(アモス書 第5章6~7節、10節~15節、マルコによる福音書 第10章17~27節)
「永遠の命」つまり「神の国」を受けるためにどうすれば良いかと問う金持ちの青年にイエスは「『殺すな、 姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言いま す。つまり、律法に従って生きるよう確認します。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答 える青年にイエスは「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施し なさい。―― それから、わたしに従いなさい」と言いま す。「永遠の命を受け継ぐ」=「神の国に入る」=アモ スの言葉で言えば「神を求める」とは、財産を貧しい人々に施し主イエスに従うことだと言うわけです。アモ スは権力者が行なう貧しい人々からの搾取を糾弾することで、弱い立場に置かれている人々を大切にすることが神を求める=神に従うことであると説きました。イエス は貧しい人々に施しイエスに従うよう求めます。
弟子たちのように青年も驚いたと思います。当時、財産があることは神の祝福がその人にあることの証しだと捉えました。つまり、貧しい人々は神から祝福されてい ない存在であり、その責任はその人に置かれたのです。 青年や弟子たちの感覚からすれば、イエスが青年に求めたことは神の恵みの証しを放棄することでもあったでしょう。しかし、イエスは青年に対して意地悪を言った訳ではありませんでした。財産の放棄を勧めるときのイエ スを福音書はこのように表現しています。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。この「慈しんで」は 「愛して」という言葉。イエスは青年を助け、救いに導き入れようとしたのでした。イエスの心中は書かれていないので想像するだけですが、イエスは青年を財産の呪縛から解き放とうとされたのではないかと思います。私たちは富や権力を神の座に置いてしまうことがよくある からです。
ある神父は、神さまがお造りになったこの世界にいま何が必要かは「小さくされた人々が教えてくれる」「そ のためには彼らに聞かなければならない」と言います。 なぜそのような状況に置かれることになったのかを理解 る必要があり、そして弱い立場に置かれた人々が何を必要としているかを聴く必要があるとのこと。「理解する、understand は相手より低いところに立つ必要がある。相手に教えてもらうということ」と神父は言いま す。恐らく青年に必要なこと、イエスが言った「財産を売り払い、私に従いなさい」というのはこのことだった のではないだろうか、と思うのです。 今日の箇所からイエスは再び受難の道を歩んでいきます。「イエスが旅に出ようとされると」との出だしはそのことを暗示します。神は独り子という財産を正に「売り払い」、私たちを救いの道へと招かれました。私たち人間の声に耳を傾けられた。私たちもいま「しんどい立 場」「弱い立場」に置かれている人に目を向け、声に耳を傾けましょう。私たちはそれぞれが「あなたのことを 忘れていないよ。声を聴いているよ」との呼びかけを受けています。私たちもまた、「あなたに関心をもっているよ。祈っているよ」と伝えたいのです。信仰と生き方は直結する。そのことを今日の聖書からともに分かち合 いましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年10月3日 聖霊降臨後第19主日拝説教より
(創世記 第2章18~24節、マルコによる福音書 第10章2~9節)
「どなたでもお越し下さい」との一文。ほとんどの教会がどこかに掲げている一文です。一昔前は教会を箱船に喩えられることが多かったように思います。しかし、教 会にいる人だけ、つまりクリスチャンだけが救われるという考え方から、そうではないのだ、と「救い」に対す る捉え方が変化してきて、今は教会=箱船と表現することは少なくなってきました。しかし、ノアの箱舟の中、 ノアの家族と共に乗り込んだ多種多様な動物が一緒にいるあの空間は、理想の教会像と言えます。
そして、ノアを通して行われた神の導き、救いへの導きに従うというあの光景は「わたしを父なる神は導いてくださった」という神の愛を確認する光景でもあります。しかし、同時に考えるのです。あの光景が救いであったのは、ノア以外にも箱船に乗り込んだ家族が・動物がいたからだな、と。ノアだけがあの箱船に乗り込んでいたら、たとえ彼の命が救われたとしても、それを救いとは感じることは難しかっただろうと。
今日の旧約日課で、独りでいる人を見て語られた神さまの言葉が心に響きます。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。ここで語られた「助け」というのは、救済としての助けです。孤独にある人を救う存在を神は造られました。人からすれば、それは応答してくれるパートナーでした。神がお造りになっ た、あらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付け たが、自分に合う助ける者は見つけることができなかったからです。そこで神は眠りにつかさせた男「イシュ」 のあばら骨をとって、女「イシャー」をお造りになりました。そう、この物語は「イシュ」と「イシャー」の語源・由来についての物語です。しかし、人は独りではいきることができない、というメッセージを持つ物語でもあります。そして時間を経て結婚が神聖であることの根拠ともなりました。しかし、今日はこの物語で神がおっしゃった、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助 ける者を造ろう」との一言を大切にしたいと思います。
私たちはそれぞれが救いに導かれた存在であり、それぞれが互いに助けるものであり助けられる者です。つま り、それぞれが「イシュ」であり「イシャー」です。年齢も出身もバラバラですが、確かに神に愛されている存在です。聖書の時代もそれに続く長い時代も、性の認識 は「男」と「女」だけでしたから、「男」と「女」に創られたとあります。しかしこの数十年ほどの間に、性は 「男」と「女」だけではないということが分かってきま した。今の時代にあっては、人と人は互いに必要であると神が認めたからお造りになった、との読み方が必要でしょう。
「人は独りでいるのは良くない」。教会もそのために神が造られた共同体と言えます。「誰でもお入り下さ い」。この見慣れた一言は、あなたを・わたしを救いへと招き入れてくださった神さまの呼びかけでもありま す。そしてこの言葉が聖愛教会に相応しい一言となりますように。私たち、今週も主イエスに導かれて歩みまし ょう。
(司祭ヨハネ古澤)