2021年11月28日 降臨節第1主日拝説教より 於:城南キリスト教会
(サロニケの信徒への手紙Ⅰ 第3章9-13節、ルカによる福音書 第21章25-31節)
私たち人間は記憶する生きものであると同時に忘れる生きものでもあります。もちろん忘れる事は悪いことではありません。ウィリアム・ジェームズという19 世紀の心理学者は、「人間がすべてを思えているとすれば、 何一つ覚えていない場合と同様に都合が悪いことがほとんどだ」と言います。
また別の心理学者は「もしすべてのことが忘れられな くなったら、普通の生活を送ることは難しくなります。 たとえば、友人とけんかをしたとしましょう。もし記憶 が正確であるとすれば、けんかをしたというネガティブ な記憶はそのままであり、友人との人間関係の修復は難しくなります。しかし、人間は忘れるという機能をもっているので、その後の付き合いの中で記憶を修正し、新 たな人間関係を築くことができるようになるといえま す」と言います。私たちは忘れることで、人生の新しい一歩を進めることができているのです。
問題は、私たちにとって最も大切であるはずの存在を忘れてしまうことです。私たちは自分の生活にとって優先度の高いもの・ことは何とか覚えておこうとします。
仕事のスケジュールや約束事は手帳に書き込みます。誰かからの急な頼まれ毎は手近な紙にメモをとります。住まいの距離に関係無く家族や友人のことは折りにふれて思い出し、時には電話やメールで連絡を取るでしょう。
しかし、神さまのこと、主イエスのことは長期間忘れっぱなしになることがあります。ちょっと意地悪な言い 方をすれば、教会に来ても教会の用事のことに気をとられて神さまそっちのけということもあります。そして 「はっ」と主イエスのことを思い出し、ばつの悪い後ろめたい気分に襲われます。
しかし最近は、普段は主イエスのことを忘れていても、あるとき「はっ」と思い出すならそれはそれで良い のではないかと思うのです。私たちはどれほど忘れていると思っていても、無意識下で覚えているものです。こ こぞという時に思い出せる存在、それは私たちにとって、とても大きな大切な存在である証拠といえるので す。
主イエスは常に私たちを見つめて下さっているわけです。主への応答が私たちに求められている。であるなら ば、終末の到来を気にしすぎることなく、主イエスの存在を心に留めた状態で自分らしく生きる。神の国到来と主イエスの計り知れない愛を信じて生きる。そして、ふ と立ち止まって主イエスのことを神のことを思い起こす。大切な友人をふと思い出すように。そのような生き 方はとても豊かな生き方ではないでしょうか。
天に召された兄弟姉妹も、今を共に生きる兄弟姉妹も、大切な主イエスと共に心に留めながら、共に人生の歩みを、信仰の歩みを進めて参りましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年11月7日 聖霊降臨後第24主日拝説教より
(列王記 第17章8~16節、マルコによる福音書 第12章38~44節)
「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」 との神の命令によって、預言者エリヤはやもめのもとへ向かいました。神が彼女を通してエリヤを養うためでした。しかし、財産はおろか食料も底を尽きているやもめの家です。常識的な考え方が染みついている私たちがエリヤの立場にあったなら、「神さま、これはいくら何でも無理です」と口には出さずとも、心の中でこの一言を叫ぶことでしょう。しかし、エリヤは神の約束通りこのやもめに養われたのでした。
ふと思います。神さまの目的はどうだったのだろう か、と。実はやもめとその家族を支えるためにエリヤを遣わしたのではないのか、と。神さまのみ心は私たちにはわかりません。どこまでいっても想像して祈るしかな い。しかし、ふとそう思うのです。神さまの溢れんばかりの慈しみと愛を、この物語に見てしまうのです。
1クァドランスを賽銭箱に投げ入れたやもめは、この エリヤとやもめの物語を思い出していたかはわかりませ ん。しかし、もしこの物語のやもめと自分自身を、1ク ァンドランスのやもめが重ね合わせていたなら、その祈りには自分の置かれた状況の厳しさとともに、神さまへの絶大な信頼とを併せて祈っていたのではないでしょう か。その彼女の姿をみた主イエスは言いました。「彼女 はその乏しさの中から持てるもの一切を、つまり彼女の生活の糧すべてを、投げ入れたからだ」。そう、彼女は彼女自身を献げました。ここにエリヤと出会ったやもめの姿を見ます。自分たちの食料をすべてエリヤのために用いたやもめです。彼女もまた、神に全てを委ねたのでした。二人のやもめの姿が重なる瞬間です。
もうだめだ。常識的な考えを日常的に行う私たちは、そのように考えることが度々あります。そして、事前に危機を回避するからこそ、安心を担保しながら生きて行 けます。しかし、時に私たちは常識的ではない選択、常識的にみて無謀といえる選択を迫られることがありま す。それは、主イエスの弟子たちが仕事と家族を残してイエスに従ったことや、今日のやもめの物語からも見て 取れます。それは多くの場合、「み心」を選ぶ時でもあるのです。
そして今日の二つの物語から私たちは、人の目にみて私たちが立派であるかどうか、を神は気にもとめられない、ということがわかります。私があなたが、社会的に地位があるか、財産を持っているかは関係ないのです。
私が、あなたが自分をどれだけ「自分はとるに足りない 存在だ」と感じていても神の愛が変わることはないのです。全ての人を大切にされる神。それが私たちの主です。ありのままの「私」「あなた」を大切にしてくださる。 先主日の8つの幸い。霊において貧しいものは幸いである、悲しむ人は幸いである。パウロの言う、「弱いときにこそ強い」。私たちはそのようなときにこそ、神の愛に気づくのかもしれません。しかし、これは自分に言い聞かせてもいるのですが、どのような時にも神の愛に気づける、そのような人生の歩みができればと熟々思います。
(司祭ヨハネ古澤)