2020年10月25日 聖霊降臨後第21主日礼拝説教より (於:大阪城南キリスト教会)
(マタイによる福音書 第22章34節~46節、出エジプト記 第22章20節~26節)
今日は、出エジプト記の一節から始めます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」。出エジプト記第3章7節です。神さまがモーセを立てて、エプトで奴隷として生きていたイスラエルの民を約束の地へと導く決心をされた理由が記されています。「苦しい」という人々の声を聞いてくださる、そのような神の姿勢が表れています。
本日の旧約日課にも、似た一文がありました。「もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く」と記されています。「寄留者を、寡婦を、孤児を、貧しい人を、それらの人々を虐めたり、その人々に対して心無い行いをしてはならない。神はその人々の声を聞く方なのだ」。そのように聖書は語ります。また、表現を変えれば「神は立場の弱い人の側に立つ、弱い立場の人に寄り添う」、そのような方である、と言えるでしょう。
私たちは神の想い・願いに沿った生き方を続けることができるよう、日々試行錯誤しています。そのような存在です。主イエスは「『心を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である」と言います。神である主を愛する。言い換えれば、神である主を大切にする。主の想い・願いを汲む。それは主イエスが言う第二の掟に繋がります。「隣人を自分のように愛しなさい」。自分を大切にしなさい。このことが前提となり、隣人を自分のように大切にしなさい、と主イエスは言います。
また、メシアはダビデのような権力を持つ王ではない、と主イエスは言います。それは主イエスの行いを見れば一目瞭然です。主イエスは当時、罪人と看做されていた人々と時間を過ごし、食事を共にされました。何より、私たちと全く同じ一人の人間としてこの地上に来られたのです。それは人間に寄り添おうと、人間を理解しようとされたからでしょう。
カトリックの本田神父は言います。「理解する」は英語で「understand」、「下に立つ」です。相手を理解するには、その人と同じ位置に立つのではなく、一段低いところに立つ必要がある。相手から教えてください、という姿勢が必要である、と。主イエスはまさにその姿勢でもって、私たちに接してくださいました。
旧約時代から主イエスの時代まで。そして今の時代も、神の想い・願いは変わりません。互いに大切にし合うこと。弱い立場に立たされる人の声を神は聞く。そのことを憶えること。降臨節を目前に控え、私たちは再度、神の想いに耳を傾けましょう。それは私たちの生き方を再度見直すことであり、私たち自身が神に大切にされている存在であることを、再確認することへと繋がります。
(司祭ヨハネ古澤)
旧約の時代から主イエスの時代まで。そして今の時代も、神の想い・願いは変わりません。互いに
2020年10月18日 聖霊降臨後第20主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第22章1節~14節)
一昨日、プール幼稚園に行ってきました。4つのクラスでお話をしました。お話が終わると年中さんと年長さんは質問してくれるのですが、その一人が「人間はどうやってできたのか」と質問してくれました。創世記の冒頭のお話しをかいつまんでお話しし、「人は神さまの形に創られた。でも皆、顔も得意なことも違う。それでも神さまの似姿に創られたということは、神さまは多様な特徴を持っているんだね」と話しました。「皆が神さまの似姿に創られているから、全ての人の命は大切なのだ」と。うまく伝わったかどうかはわかりませんが、頷いてくれました。
神さまに創られた私たちは、神さまの作品です。この世の存在の全てがそうです。「主に栄光を帰する」という言葉がありますが、これは私たちを通して神さまが賞賛されるように、との意味です。絵画や音楽、映画、小説のどれもが、その作品が良ければ作者が章を受けます。それと同じように、私たちの背中を見た人々が「神さまってすごいな」、「神さまの愛って素晴らしいな」と感じる。そのことを私たちは望むわけです。
福音書では、律法学者とヘロデ派が共謀して、主イエスを罠にかけるため「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と質問をした。そのような一場面が紹介されています。しかし、主イエスは彼らの質問に正面から答えませんでした。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と返答しました。主イエスがどのような理由・想いでもって返答したかはわかりません。ですから、主イエスの胸中は想像するしかありません。色々な解釈があるでしょうが、私はこのように思うのです。イエスは「自分で考えろ」と彼らに伝えたのではないかと。
「私たちは主に栄光を帰すため、この世に生まれてきた。そうであるならば、自分が何をすべきかはわかるだろう」と、言いたかったののではないでしょうか。「神に栄光を帰すために、どのような行動を・生き方をすべきか自分で考えなさい」と。罪人と看做されていた人々といつも共にいた主イエス。弟子たちに裏切られても、弟子たちを赦すように神に祈った主イエス。十字架にかけられた後も、全ての人間を慈しんで、弟子たちの前に現れた主イエス。主イエスの背中を見て、私たち一人一人が神の愛を表す生き方を模索するのです。
文字通り、全ての人が神の似姿に創られている。一人一人の尊さに目を向けて、共に歩んで参りましょう。もちろん、自分自身の尊さに目を向けることを忘れてはいけません。主に栄光を帰するため。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年10月11日 聖霊降臨後第19主日礼拝説教より (於:聖ガブリエル教会)
(マタイによる福音書 第22章1節~14節)
北海道の函館や青森の津軽地方には「雁風呂」という風習があったそうです。雁は寒い地域で過ごす渡り鳥だそうですが、昔の人は、ある場所に枝が積み重なることに疑問を感じ、その理由は雁が枝を持ってくるからだと考えました。雁が一匹ずつ枝を咥えて海を渡り、羽が疲れると枝を海に浮かべ、その枝に足を乗せて羽を休めたと考えました。そして、函館や津軽地方までやってくると、枝が不要になりますので、枝を捨てて本州へ行く。だから、特定の木の近くや海岸に枝が積み重なるのだ、と考えたのでした。春が来て、雁が日本を発つときにはまた枝を咥えて飛んでいく。しかし、雁が飛び立っても残っている枝は、日本で命を落とした雁のものに違いない。だから、人々は命を落とした雁の供養の意味を込めて、枝を拾い、また薪を足して風呂を焚きました。そして、旅人を風呂に入れ、また必要ないくばかの路銀や食事を提供したと言われます。
先週に続き、本日の福音書でも、預言者そして主イエスと人々との関係が語られています。天の国、つまり神の国が近づいていることを預言者たちが人々に伝えたが、人々はその言葉に耳を貸さなかった。神に言葉より、自分たちの仕事・生活を優先させました。主イエスを遣わしてもそうだったのです。だから、神は、ユダヤ人に限らず、誰でも招くことにした。そのように主イエスは譬えを用いて語ります。
ただ、最後の「神は、ユダヤ人に限らず、誰でも招くことにした」というのは、福音記者マタイの編集だと言われています。主イエスが伝えたかったことは、神の国が、つまり神の支配が近づいている、だから今こそ、神の言葉に耳を傾けなさい、自分たちの仕事・生活より神に従うことを優先させなさい、ということでしょう。
それは、そんなに大それたことではないでしょう。互いに愛し合う。隣人を愛する。主イエスが伝えていることは、このとこだけです。函館の人々は、雁の渡りを通して旅人を慈しむ道を歩みました。雁の命に目を向けることで、私たちの言葉で言えば、旅人を慈しみなさいという神のメッセージを受けたのでしょう。旅人の隣人になったのです。
私たちも、一人一人が多様な形でメッセージを受けています。その声に耳を傾けましょう。この教会の交わりにも、多くのメッセージが溢れているはずです。そのメッセージの一つは、間違いなく「私はあなたを愛しているよ」という神さまから私たち一人一人へのメッセージです。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年10月4日 聖霊降臨後第18主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第21章33節~43節)
言葉を預かると書いて預言。つまり、預言者とは神の言葉を預かる存在です。しかし神さまが人間にメッセージを発する場合は、多くが警告や注意を告げる必要があってのことですから、預言者が語る言葉は人々にとって耳の痛いものでした。また、受け入れがたいものであり、多くの預言者は人々から疎まれていたようです。
そして預言者は、その語る言葉が的中して初めて預言者と認知されることが多かったようです。つまり、その言葉が実際に神さまから預かったものであっても、語る通りにならなければ信じてもらえません。この葛藤を預言者ヨナは神さまに吐露しています。どういうことかと言いますと、ヨナを通して神さまの警告を聞いたある国の王は、国民に悔い改めるようお触れを出しました。その結果、国民は悔い改めて神の怒りは収まり、ヨナが告げた災いは起こりませんでした。ヨナは人々から嘲りを受けることになるのです。
しかし、神さまはヨナに、多くの命が救われたのだから良いではないかと語ります。命はどれほど尊いかと。預言者は神から選ばれる存在ですが、その働きを全うすればするほど惨めな道を歩むと言えます。それは、私たち人間が神さまにきちんと向き合わない、そのような歩みを続けてきた結果でもあるのです。神さまは、人間との関係を回復したい、と常に願っておられます。
この主イエスの譬え話は、本日の旧約日課であるイザヤ書第5章が下地になっています。主イエスもおそらくは、このイザヤ書を想い起こして話されたのでしょう。
このことは私たちにとっても大きな課題です。今日の福音書で主イエスが譬えを通して示している課題はつまり、私たちは如何にして神さまのメッセージ・み心を捉え、神さまとの関係を回復するか、ということです。そのために、私たちには神のメッセージを見分ける目と耳が必要です。そのためには、絶えず主イエスの目線で物事を見る必要があるでしょう。主イエスの目線とは、相手を裁く目で見ることではなく、相手の背景を想像しながら見つめること。主イエスの言葉で言えば、互いに愛し合うことと言えるでしょう。そのような生き方を続けた結果、もしかしたら他の人たちから「変わった人」と見られるかもしれません。しかし、主イエスは家族からも「彼は気が変になった」と見なされていました。一風変わった生き方も面白いかもしれません。私たちを通して、神さまの深い愛が示される。そうであるなら、何にも勝る喜びです。
(司祭ヨハネ古澤)