牧師の小部屋 ㊻
先主日、祈りのの方々と守口聖オーガスティン教会の「守口ぶどうのいえ」を訪問しました。守口ぶどうのいえは、「特定の病院で、入院、検診、リハビリ等のために遠隔地から来られる患者やその付き添いのご家族が安価に滞在でき」る場所として2005 年に始まり、今年開設20 周年を迎えます。
「守口ぶどうのいえ」の働きは、1995 年に東京聖テモテ教会敷地内で始まった「聖テモテ愛の家」に由来します。老朽化し役目を終えた「東京テモテ女子寮」を改修し、難病の子どもと家族のための滞在場所として始まった聖テモテ愛の家は、ニックネームが「ぶどうのいえ」でした。2000 年にNPO 法人格を取得しますが、その際に施設名称も「ぶどうのいえ」となります。東京の「ぶどうのいえ」も利用者にとっての「もうひとつの我が家」を目指しています。対象となる利用者は異なりますが、守口ぶどうのいえも東京のぶどうのいえも、利用者が我が家のように安心出来る場を提供したい、という目的は共通しています。
守口聖オーガスティン教会会館の2 階が守口ぶどうのいえの入り口です。玄関を上がると共有スペースであるリビングと台所、部屋数に合わせて小ぶりの冷蔵庫が四つありました。共有スペースを始め、どの部屋も20 年経っているとは思えないほど綺麗で手入れが行き届いていました。
施設長の義平雅夫司祭(守口聖オーガスティン教会牧師)は、「守口ぶどうのいえはボランティアの人たちの働きがとても大きい。お子さんのお見舞いや受診のため遠方からくるご家族を迎え入れる準備が常にできているのはボランティアの働きのおかげ。備品にぶどうの刺繍をして下さる方もいる。皆さんができることを一つずつ出し合ってくださり、ぶどうの家が運営されている。そして皆さんの献金にぶどうのいえは支えられている」と感謝の言葉を述べておられました。
(司祭ヨハネ古澤)
2025年6月22日 聖霊降臨後第2主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 9章18~24節)
主イエスは弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23 節)と言いました。「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。この三つの動作、自分を捨てること、自分の十字架を背負うこと、主イエスに従うことは言葉は違いますがどれも同じ事を示しています。キリストに従うことです。主イエスは「自分を捨てる」つまり自分の思いを優先させず、神の思いを優先させなさいと言います。「自分の十字架を背負って」という言葉からは主イエスがゴルゴタの丘へ十字架の横木を運んでいる際、力尽きたイエスの代わり横木を運んだキレネ人のシモンを思い出します。「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた」(23:26)。キレネのシモンはまさか自分が主イエスの横木を運ぶことになるとは考えてもみなかったでしょう。神の思いを優先させること、主イエスの代わりに十字架を運ぶこと、これらはキリストに従うことと同義です。私たちが人目をはばかることなく信仰告白ができる環境は、キリストに従った多くの人々の上に成り立っていることを知ります。それは、主イエスが担っておられた十字架を自分の十字架として運んだ人々、聖霊の導きに従って神の福音を人々が運び続けたことによるものです。
しかし、多くの先人たちは不請不請キリストに従ったのではないことを私たちは知っています。ある人は預言者の言葉に、ある人は詩編の歌に、ある人は主イエスの言葉に励まされ、生きる力をすら与えられました。主イエスの言葉が、時間と場所を超えて現実のものとなっていた。だからこそ、人々は神の福音を届け続けたのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㊺
「聖公会生野センター」の働きを紹介します(大阪教区ホームページから引用)。
「聖公会生野センター」は1992年、新しい「聖ガブリエル教会」と博愛社「こひつじ乳児保育園」の竣工と共に、生野区小路東において働きを始めました。当時の生野センターはこひつじ乳児保育園と事務所を共有しており、独自の建物は持っていませんでした。2008年に生野センターの新拠点として現在の場所、小路3丁目に移転します。
旧拠点でも新拠点でも生野センターの働きは変わっていません。一言で表すと「地域が必要とすることをする」と言えます。しかし大きな声ではなく小さな声を大切にしています。行政や他の団体ではカバーできていない事柄に目を向けてきました。
「のりばん」(「遊び場」の意)は在日一世、二世の方々が集まり昼食をとる場ですが、母国語である韓国語でコミュニケーションをとれる場であり、故郷について語り合える場です。アイデンティティーを確認できる場とも言えます。
「クリンもだん美術教室」は、地域の方から「自分の子どもは絵を描くことが好きで美術教室に入れてやりたいが障がいを持っていることで受け入れてくれるところがない」との声から「誰でも参加できる美術教室」として始まりました。この働きはデイサービスへと続いていきます。 やがてデイサービスには多様な人が集うようになります。その当事者から、「土日開いているデイサービスがない」「土日の行き場所がない」との声があがり、生野センターのデイサービスは土日も開所するようになりました。デイサービス利用者と生野センター職員で結成された「なんちゃってジャズバンド」は生野区民まつりでも好評を得ました。
この他にも、地域で働く他のNPO団体や市民団体と繋がり(生野区NPO連絡会)地域への働きを行なっているほか、地域の教会との繋がりや、プール学院高校生をはじめとする生徒のボランティア受け入れ、韓国語教室、センター初期から続いている落語会(こみち寄席)にいたるまで「地域が必要とする」働きを行なっています。
(司祭ヨハネ古澤)
2025年6月8日 聖霊降臨日 礼拝説教要旨
(ヨハネによる福音書 20章19~23節)
聖愛教会の和室には、「私はぶどうの木。あなたがたはその枝である。」(ヨハネによる福音書15章5節)との書が飾られています。この書は「主にあって我らは一つ」という言葉を想起させますし、正に私たちは主イエスに繋がる存在です。だからこそ、場所は離れていても、聖堂に集まることはできなくても、主イエスは私たちひとり一人を養ってくださる、生きるための生命を送り続けてくださるのです。そして、私たちは互いを覚えて祈ることが出来る。誰かがあなたを憶えて祈ってくれている。あなたも多くの人々を憶えて祈っている。それが、主イエスに繋がっていることの証しです。
弟子たちが恐れと不安の中にいたように、私たちはしばしば恐れと不安の中に置かれることがあります。しかし、主が共におられるのです。弟子たちの只中に「平和があるように」と来られた主イエス。「平和」は神が共におられる状態を表します。それは、主イエスを介しての私たちの一致の徴であり、キリストと共に生きることです。そして、「あなたの良いところもそうでないところも全てを、あなた自身として私は愛しているよ」という私たちひとり一人の存在の肯定です。そう、聖霊降臨の出来事は、「神共にいます」という平和の出来事です。
それぞれの人生において恐れと不安の中に置かれる私たちですが、神共にいますという平和の出来事が主によってなされました。この大きな希望と喜びを、場所は離れているとしても、ともに分かち合いたいと思います。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㊹
ホールから中庭に出るドアを開けて右側にマドンナ・リリーの鉢植えが置いてあります。マドンナリリーは「地中海沿岸、パレスチナ、バルカン、コーカサス地方に自生する鱗茎を形成する宿根草」です(「聖書植物園図鑑より」)。レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」では天使ガブリエルの左手にマドンナリリーが描かれています。白い小ぶりの可愛らしい花が特徴で、ご近所にお住まいのゆりを研究されている学者さんが球根から育てたものをお貸しくださいました。
最近の研究ではマドンナリリーの原産地はシリア地方であることが分かってきたそうです。マドンナリリーの球根はとてもデリケートで水をあげすぎると花が咲きません。パレスチナは2月くらいに雨期が終わりますので、マドンナリリーが育つにはよい水加減の環境になるようです。
旧約聖書に出てくる「野のゆり」(雅歌やホセア書)はこのマドンナリリーのことで、また、前4世紀頃「エルサレムで作られたコインにはゆりの花がかたどられていて、そのゆりは本種であると考えられています。 白いゆりはこのマドンナリリーの他、日本や韓国、中国などの東アジアでしか咲かないため、江戸末期から明治・大正にかけて、日本から欧米に多くのゆりが輸出されました。とくに鉄砲ゆりはイギリスに向けて多く輸出されたようです。また大正期には、神奈川県鎌倉の玉縄地域(当時、鎌倉郡玉縄村)では輸出用にゆりの球根が栽培されました。
(司祭ヨハネ古澤)