2020年1月26日 顕現後第3主日礼拝説教より (於:大阪城南キリスト教会)
(マタイによる福音書 第4章12節~23節)
主イエスの「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」という言葉だけで、4人の漁師が弟子になります。もちろん、この言葉に即座に従った弟子たちを見て私たちは、「福音書には記されていないが弟子たちはとても迷い悩んだ末、弟子になることを決めたに違いない」と考えます。そして、この考え・想像はあながち間違いではないとも思います。しかし、一方でこの考えは、私たちがキリストの言葉に、神の福音に素直に従えないことへの言い訳でもあるでしょう。
「来なさい」と言われて4人の漁師が全てを置いて主イエスに従う。それほどの権威を神の子である主イエスは持っているのです。そしてその権威は、単に強者の暴力ではなく、「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやす」という人間を生かすもののようです。
しかし、主イエスの教えてと神の福音の宣べ伝えのもとで、病・患いの癒しが行われたことに目を向けると、何にもまして「キリストの言葉・福音に耳を傾け従うことが肝要なのだ」とのメッセージを受けます。神さまに呼ばれたサムエルが、「どうぞお話しください。僕は聴いております」(サムエル記上 第3章10節)と応えたことでその道が示された出来事を、私たちは再度思い出す必要がありそうです。それは、全ての人の癒やしに繋がるだけではなく、私たち自身もまた本来の自分として生きて行けることを示します。なぜならキリストの声に従うということは、自分の力を絶対視せず、神の導き・支えを必要とすることを認める生き方がだからです。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年1月19日 顕現後第2主日礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第1章29節~31節)
本日の福音書個所にこのようにあります。主イエスに洗礼を授けたその翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て行った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。『わたしの後ろから一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。洗礼者ヨハネは、なぜこのように言うことができたのでしょうか。
それは、洗礼者ヨハネが事前に神さまから知らせを受けていたからでした。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」のでした。洗礼者ヨハネは弟子たちに、そして弟子の一人であるアンデレは兄弟に、主イエスのことを伝えました。それは信仰の手渡しでもありました。
石文というものがあるようですが、石文は文字のない手紙であり、受け取った者は渡し主の気持ちを石を通して想像します。創造するしかないのですが、文字がないゆえに、かえって文字では表せない気持ちを伝えられるのではないかと思います。信仰・希望・愛の手渡しもまた、言葉で表現できない喜びや力強さを相手に伝えることができるはずです。
私たちは神さまから始まった信仰の石文、福音という石文を受け取り、何を感じるでしょうか。喜び、安堵、慰め。一人ひとり異なるメッセージを受けるでしょう。それをまた、誰かに手渡していきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年1月12日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 礼拝説教より (於:聖ガブリエル教会)
(マタイによる福音書 第3章13節~17節)
主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面が本日の福音書個所です。
主イエスが洗礼を受けようとするのを思いとどまらせようとするヨハネに対して、主イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言います。
「正しいことをすべて行う」というのは、「神さまのみ心を成就する」という意味合いです。み心を成就させるのは神さまご自身ですから、他の聖書箇所では受動態で書かれていますが、この箇所は能動態で書かれています。主イエスは、み心の成就に向けて人間が積極的に生きることの重要性を示しておられるのではないでしょうか。
洗礼者ヨハネの行う洗礼は罪の洗い流し・清めのための洗礼でした。本来なら、罪の無い主イエスは受ける必要がないはずです。このことは、洗礼者ヨハネが主イエスの洗礼を思いとどまらせようとしたことからもわかります。しかし、主イエスは積極的に洗礼者ヨハネのもとへ来られました。私たち人間と同じように洗礼を受けることで、私たち一人一人と共に生きられることを示されたのです。
主イエスは誰かに頼まれたからではなく、ご自身の想いから私たち人間の間に宿られました。そして私たちと共に生きてくださいます。私たちも、積極的に主とともに生きましょう。主への信頼を持ちましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年1月5日 降誕後第2主日礼拝説教より
幼子イエスを連れた父ヨセフと母マリアの旅は、父なる神の導きによるものでした。ヘロデ大王から主イエスを守るための旅でした。幼子イエスを守るための旅ではありましたが、ヨセフとマリアにすれば異国で二人っきりの生活を強いられるわけです。自国での迫害から隣国エジプトに逃れた生活です。まさに難民です。寄留者としての生活でした。神のみ守りがあることは二人とも確信していたでしょう。しかし、それでも心細かったはずです。
知り合いが全くいない状態での生活。幼子を抱えての生活。それが自分たちであったらと少し想像してみればぞっとするでしょう。実際にそのような状態を、難民ではないにせよ、経験された方もおられるかもしれません。しかし一方で、ヨセフとマリア、そして幼子イエスは、旧約聖書の中で、父なる神が口を酸っぱくしてイスラエルの人々に告げていた大切なことを体験したのではないかと思います。「あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持ちを知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。」という出エジプト記の言葉です。旧約を通して、特にモーセ五書を通して、神はイスラエルの民に隣人愛を伝えていました。その社会において特に弱い立場の人々を大切にするようにと伝えていました。当時、最も弱い立場だったのが寄留者だったのです。出エジプト記では、イスラエルの民がエジプトの地で寄留者として生きていました。ヨセフとマリア、そして幼子イエスはその寄留者の状態におかれ、神の導きによって、そして神に導きにより新しい出エジプトを経験したのでした。
出エジプト記は、モーセが約束の地を目にする場面で終わります。モーセ自身は約束の地を踏むことはありませんでした。しかし、神がその約束を果たされる方であること、そして神の導きが人々を救うのだという確信を持つことができたわけです。
新しい出エジプトは、幼子イエスを連れたヨセフとマリアから始まりました。ヨセフとマリアから始まった新しい出エジプトの旅はまだ続いています。私たちの約束の地は神の国です。ちなみに出エジプトの旅は40年かかり、第一世代は皆約束の地を踏むことはできませんでした。しかし、その子供たちは約束の地へと入ることができた。しかし、神の国は全ての人が入ることができる。なぜなら、死が終わりではないからです。新しい出エジプトの旅はまだまだ続くでしょう。しかし、モーセが神の導きは間違いないことを確信したように、ヨセフとマリアがどれだけ困難な中でも神の導きを信じたように、私たちも主の導きを信じて進みましょう。そのために、共に祈り、互いに支え合い、そして賛美を献げましょう。一方で、神のみ心を忘れないように、私たちの社会における寄留者、すなわち弱い立場に置かれている人々を覚えて祈り支えましょう。
この一年が心から神への信頼をもって、私たちが主の導きに従う一年となりますように。
(司祭ヨハネ古澤)