2024年6月30日 聖霊降臨後第6主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 第5章22~24節、35b~43節)
大切な娘の命が消えかかっている。自分の力ではどうすることもできない状況です。会堂長ヤイロは主イエスに頼ることを選びました。「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った」と福音書は報告しています。会堂長とは会堂の著名なメンバーの尊称でもありました。地位ある成人男性が主イエスの足もとにひれ伏す姿は、人々の目に奇異に映ったでしょう。同時にその姿は、ヤイロがどれほど必死であり、主イエスに信頼していたかを物語っています。命を落としたヤイロの娘に向かって「タリタ・クム」と主イエスが呼びかけます。「少女よ、起きなさい」。ただ呼びかけるだけではなく、主イエスは少女の手を取って、つまり手を握って呼びかけます。「あなたの命を私は必ず守る」という主イエスの決意が表れています。死んだはずの少女は、主イエスの呼びかけに応えて起き上がったのでした。
少女が主イエスの手をしっかりと握り返し立ち上がったとき、悲嘆にくれていたヤイロもまた立ち上がったでしょう。ヤイロが主イエスの足もとにひれ伏してしきりに願ったあの姿は、悲しみのあまり地面に手をつきうなだれる姿でもありました。主イエスは少女の手をとって「タリタ・クム」と命じましたが、それは少女に対してだけでなく、ヤイロの手を取り「立ち上がりなさい」との呼びかけでもありました。そして「タリタ・クム」は私たちに対しての呼びかけでもあります。私たちは少女ではないかもしれません。しかし、主の導きを必要とする者であり、その意味では幼い存在です。少女の手を握ることで同時にヤイロの手を握られたように、主イエスは私たちの手を握っておられます。私たちを生かそうとしてくださる主イエスの決意です。私たちもまたその手を握り返すのです。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉚
『私の親鸞-孤独に寄り添う人』という本で、作家の五木寛之さんは同じく作家で元東京都知事の石原慎太郎さんと対談したときのことをお話しされていました。対談のテーマは「自力と他力」です。 石原慎太郎さんは自力主義だそうで、このように述べたそうです。「宮本武蔵が吉岡一門と一乗寺下り松で決闘に行く時、通りかかった八大神社の前で立ち止まり、今日の試合を何とか勝たせてください、と神に祈ろうとしたその瞬間、はたと気づいた。神さまに恃(たの)んで勝利を願うようでは武芸者としてダメだ。あくまで自分の力で勝たなければならないと。そこで祈らずに武蔵は決闘に向かい、見事に相手方に打ち勝った。だから本当に大事なのは自力なんだよ」。この石原さんの論に対して五木さんは「私はそこで、こう屁理屈をこねたのです」と前置きをしてから石原さんへの反論を紹介されました。
「いや、それは違うと思いますね。神社の前に立って頭を下げようとした瞬間、はっと気がついて、神仏に勝負の帰趨(きすう)を恃(たの)むようじゃ武芸者としてダメだ、ここは徹底的に自分の力で戦わなければならない、と考えた。そのひらめき自体が他力の働きそのものじゃないですか」。 上から目線の感想になって恐縮なのですが、とても面白いやりとりだと思います。宮本武蔵が戦いの前に所謂「神頼み」をしようとしたが、ふと自分の力で勝たないと意味がないと思いつき神仏へのお願いをやめた。石原さんはだから自力が大切だと言う。一方で五木さんはその思いつきが起こることこそが神の働きなのだという。皆さんはどのように感じられたでしょうか。
私は五木さんの捉え方は信仰そのものだなと感じました。自力は私たちが生きる上で大切なことだと思います。しかし、人は人生で起こることの全てを一人で抱え込めない。抱え込めば潰れてしまいます。だから多くの人が互いに支え合って生きていきます。その一人一人を神さまが繋いでくださいます。主が共におられるのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年6月9日 聖霊降臨後第3主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 第3章20~35節)
人々を癒やし、そして教え、またファリサイ派の人々と議論する主イエスの行動は、社会的な逸脱行為と見られたようです。主イエスの行動・働きは聖霊によるもの、つまり神の働きによるものでしたが、人々はそれを汚れた霊によるものと捉えました。「霊」は行動や振る舞いを意味します。主イエスの行いが汚れた行動か、神の行動か、人々は見誤ったわけです。
それは主イエスの家族・親戚も同じでした。「あの男は気が変になっている」と耳にした家族は主イエスを取り押さえにやってきたと福音書は報告しています。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」も「彼は汚れた霊に取りつかれている」も「あの男は気が変になっている」と同じ意味です。
人々は主イエスの働きをサタンの働きであると考えました。聖書においてサタンの働きは、人間以上の知恵でもって人を神から引き離す存在として記されています。私達は主イエスが神の独り子であり神の霊に導かれて働かれていることを知っています。それは私達に聖書が与えられているからです。主イエスを「あの男は気が変になっている」と見做した人たちからすれば、主イエスの立ち居振る舞いは「気が変になっている」と見られて当然だったのでしょう。厳しい言い方をすれば、彼らは神さまのみ心に耳を傾けていなかったわけです。
しかし、この厳しい眼差しは私たちも向かってきます。私たちは神さまのみ心に耳を傾けているだろうか。主日の祈りでは神さまへの感謝と賛美と共に、このような自分自身への問いかけも、祈りとして用いてみましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年6月2日 聖霊降臨後第2主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 第2章23~28節)
「神の栄光を悟る光り」という宝を私たちは神から既に受けていて、私たちはそれを土の器に納めていると使徒聖パウロは言います。この場合の器とは、容器から日常に使う家具道具つまり什器まで幅広く表す言葉が用いられています。小さなコップから水瓶そして家具も指します。それらが土つまり粘土で出来ているとパウロは言います。
神によって最初に造られた人は土をこねて形づくられ、神の息を吹き込まれて生きるものとなりました。人間はその初めから土の器でした。私たち誰一人同じ存在がいないように(たとえ双子であってもであっても)、パウロの選んだ「器」という言葉は、読み手である各々が大きさも形も全く異なる入れ物を思い描きます。そう、土の器とは私たち自身なのです。
絵画も陶器も、その作品が素晴らしかった場合、賞を受けるのは作り手です。作品の横に「受賞作」と示されることはあっても、作品自体が受賞することはありません。私たちも一人一人が神さまの作品であると言えます。そうであれば、私たちを通して作り手である神さまが賞賛される。それが主に栄光を帰すことです。
パウロは自身の宣教の旅が困難であっても行き詰まらず、失望せず、どのようなことがあっても神から見捨てられず、滅ぼされなかったことを振り返り、これらはキリストが栄光を受けることだと言います。パウロ自身が賞賛されるべきことではなく、信仰の道へと導いてくださったキリストこそが賞賛されるのだと。
神さまは数多の土の器を作ってこられました。私たちも神に作られた存在です。多くの人が「主に栄光!」と栄光を表してきた名匠に作られた存在です。逆説的ですが、神に栄光を帰しながら、私たち自身も神に作られた価値ある存在であることを自覚して人生を歩みましょう。
(司祭ヨハネ古澤)