牧師の小部屋 ㉜
今から23年前の1961年8月1日から4日まで釜ヶ崎事件(通称、第一次西成暴動)が起こりました。現在のJR新今宮駅東口すぐに位置する太子交差点で一人の日雇い労働者がタクシーにはねられました。警察がかけつけたとき、その労働者は痙攣していたそうですが、警察は救急車を呼ばずにムシロをかけたことで、騒ぎが起こりました。そして警察署から事故現場に到着した警部補が「おまえら、税金払わんと文句ぬかすな」と口にしたその言葉に労働者の怒りが爆発したと言われています。普段「アンコ」や「よごれ」と蔑称で呼ばれていた労働者たちは、「アンコも人間じゃ」と暴動(労働者の抗議)に発展、警官隊と衝突し600人が負傷1人が死亡する事件になりました。
このような釜ヶ崎事件をきっかけに一つの分校ができたことはあまり知られていません。当時の釜ヶ崎には20~30代の労働者が多く、所帯を持つ方々も多くいました。しかし労働者の子どもたちのほとんどは、「教育棄民」と言っても過言ではない状態に置かれていました。釜ヶ崎の付近には市立の小中学校がありましたが、200人ほどの不就学児童がいました。そのため釜ヶ崎事件前から先生や学生ボランティアによって不就学児童への学習支援などが行なわれていました。事件後は治安・労働・民政対策を急ピッチで始めた大阪府市の方針で市教育委員会が動いていきます。
1962年1月、地域の有志が土地を提供し、その土地に市教委がプレハブの仮設校舎を建設、同年2月に愛隣学園が発足しました。小学校は萩ノ茶屋小学校の分校、中学校は今宮中学校の分校という位置づけでした。1963年4月には大阪市立あいりん小・中学校として独立、同年8月には愛隣会館(後の市立更生相談所)の一部に間借りしていましたが、1973年12月には新校舎が萩ノ茶屋1丁目に完成し、大阪市立新今宮小・中学校となりました。1984年3月には最後となる3人の中3生が卒業し閉校、萩ノ茶屋小学校と今宮中学校にそれぞれ統合されることになりました。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年7月28日 聖霊降臨後第10主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 第6章45~52節)
主イエスは弟子たちを舟に乗せました。福音書には「強いて舟に乗せ」たと記されています。主イエスは福音を一人でも多くの人に伝えるため、弟子たちを集めて舟に乗せガリラヤ湖の向こう岸へと彼らを向かわせるのでした。小舟にのって湖を渡る弟子たちを逆風が襲います。ガリラヤ湖では時折突風が吹くそうで、「六甲おろしのような強風が吹くこともある」と聞いたことがあります。弟子たちが直面した逆風がどのような強風だったのかはわかりませんが、漁師である弟子たちが一晩こぎ続けても舟が前に進まなかったわけです。かなりの強風だったでしょう。心細さを感じていた弟子もいたかもしれません。そのような光景を見て主イエスは湖を歩いて弟子たちの乗る舟へと乗り込まれたのでした。すると風は静まった、そのように福音書は報告します。
湖上を歩く主イエスを見て弟子たちは恐れ、主イエスが舟に乗り込むことで風が静まることに正気を失うほど弟子たちは驚きます。しかし、私たちはそのことよりも、主イエスが漕ぎ悩む弟子たちを見て彼らの舟にまで足を運び、彼らの舟に乗り込んで弟子たちと一緒に向こう岸まで渡ってくださった出来事に注目したいと思います。なぜなら、私たちは教会としても、個々の人生の歩みにおいても逆風に直面することがあり、主イエスが共にいてくださることを心から願うからです。
誰かが一緒にいてくれたから次の一歩を踏み出すことができた。離れていてもずっと話を聴いてくれたことで自分は一人ではないと実感し、漕ぎ進めることができた。このような経験を通して、私たちは誰かのことを想い共にいようとするとき、主イエスが共におられることを実感します。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉛
2020年12月、大池橋中学校すぐ近くに「シナピスホーム」という難民ハウスが誕生しました。元はカトリックの修道院でしたが、修道院を閉じるにあたって、シスターから活用してほしいと要望があり、難民移住者が生活できる場として用いられました。 カトリック大阪高松大司教区社会活動センターシナピスが運営しています。
現在シナピスホームには5人ほどの男性が生活しています。シナピスホームが立ち上がるときは、長年居住者がいなかったため傷んでいた修道院を、彼らが壁紙を変えるなど補修して入居したそうです。
シナピスホームでは毎週土曜日にシナピスカフェをオープンしています。月に一度、ランチタイムがあります。入居している方が輪番で故郷の料理を振る舞います。先月(6月)はブラジル料理でした。その男性は、今まで全く料理をしてこなかったそうですが、シナピスカフェでランチを提供するために、故郷に暮らす妻に連絡をとって料理を一から学びました。彼もまた、難民認定がされず長年日本に暮らしています。
6月10日には改正出入国管理法が施行されました。これにより、難民申請3回目以降は強制送還の対象となります。また、難民申請が通るまでの期間、今までは保証人とされていた支援者が今後は「管理人」と呼ばれるようになりました。管理人は被支援者の一月の行動を入管に報告することが義務づけられました。まるで支援者が監視者へと変えられてしまうように感じます。
シナピスホームの皆さんは、不安の中で生活されています。どうぞ、覚えてお祈りください。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年7月14日 聖霊降臨後第8主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 第6章7~13節)
宣教を続ける主イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、二人一組につまり六組に分けて弟子たちを派遣されました。その際、主イエスは弟子たちに汚れた霊に対する権能を授けました。そして宣教の旅に出る弟子たちに杖一本と履物だけ持っていくことを許したと記されています。杖は危険から身を護るために、そして長距離の移動にも必要です。履物は石の多い道を歩くために欠かすことができないでしょう。しかし、道中の食料であるパンも、旅の途中で人々から受ける寄付を入れる袋も、路銀も持参してはいけない。自分がそのような装備で旅に出される姿を想像すると心細くなります。
そのような心許ない装備ですが、弟子たちはもう一つ重要なものを持っていました。それは信仰=神への信頼でした。人間の目には十分とはいえない装備で旅を続ける弟子たちですが、十分な装備がないからこそ弟子たちは二人で支え合いながら神に信頼をおいて旅を続けたことでしょう。必要なものは神さまが与えてくださるという確信が、宿を提供してくれる人びとへの一層深い感謝となったことでしょう。そしてそのような姿こそが、人々に福音を示したことでしょう。
弟子たちの宣教の旅から長い年月が経ちました。道は舗装され、長距離の移動も便利になりました。しかし、互いに支え合うこと、そして神さまへ信頼を置くことの大切さはいつの時代から変わることがありません。それは私たちへの神の愛が不変だからです。私たちがそのことに信頼を置き続ける姿こそが、神の国の福音を示します。私たちの人生の旅路は宣教の旅路でもあります。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年7月7日 聖霊降臨後第7主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 第6章1~6節)
本日の福音書箇所は主イエスの故郷が舞台です。先主日に私たちが見たヤイロの娘の物語では、会堂長ヤイロの信仰が彼の娘を救うことに繋がりました。しかし、主イエスの故郷では人々が主イエスのことを昔から知っているためしょうか、主イエスがメシアであると信じることができず、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のでした。
「この人は、大工ではないか。マリアの息子ではないか」との言葉から、故郷の人々が主イエスをどのように見ていたかがわかります。ユダヤ社会において、大工は他の手工業と同様に重んじられながらも「知恵ある者」とは見なされなかったようです。そして父権社会であった当時において、「誰々の子」と呼ばれるときに「誰々」は父親の名前が用いられるのが一般的でした。主イエスは「マリアの息子」と言われていますが、父ヨセフはすでに死去していたのでしょうか。そこには「父なし子」のような侮蔑的な意味合いが込められています。
故郷の人々は主イエスをメシアではなく「知恵のないはずのイエス」「父なし子イエス」としか見ることができませんでした。しかし、主イエスは宣教の旅を続けます。旅を続けることが神さまの意思だからです。故郷の人が主イエスを受け入れられなくとも、主イエスの旅は終わりません。なぜなら、私たちと同じように福音を必要としている、その人に出会うためです。主イエスが旅を続けてくださった。その先に私たちはいました。主イエスが私を訪ねてくださった。だからこそ、私たちは主イエスの旅に加わり共に歩みます。私たちもまた、福音を必要とする人に出会うために。
(司祭ヨハネ古澤)