2021年12月12日 降臨節第3主日説教より 於:聖ガブリエル教会
(ルカによる福音書 第3章7~18節)
洗礼者ヨハネの言葉に心打たれた人々は彼に訊きます。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」。その問いに対して洗礼者ヨハネは「悔い改め」に関する具体的な形を示します。「下着を二枚持っている者は、一 枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も 同じようにせよ」。徴税人に対しては「規定以上のものは取り立てるな」。兵士に対しては「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満 足せよ」。
下着というのは、私たちが想像するいわゆる肌着ではなく、内側に着る服のことであり、当時は防寒着の役割も果たしたようです。貧しい人々は下着を持たない人が 多かったのでしょう。持っている人達は、その人たちに下着そして食物を分けてあげなさいと洗礼者ヨハネは言 います。当時のパレスチナ地方ではほとんどの人が「貧富」でいえば貧しい暮らしをしていたわけですから、 「分けてあげなさい」とのヨハネの言葉は、有り余る中から分けて上げなさいではなく、たとえ生活が厳しくても自分が暮らせていけているのなら分けて上げなさい、との意味でしょう。
この洗礼者ヨハネの厳格な姿勢は徴税人や兵士にも向けられます。徴税人はローマ当局に自分に割り当てられた分の金額を先払いしていました。そして人々から税金を徴収することで先払いした金額を回収するわけです。ですから、正直に税金を徴収すれば良くてトントン、下手をすれば赤字になります。そのため、徴税人は定められた金額を割り増して税金を徴収したいたようです。余 分に徴収した額が彼らの生活費になりました。兵士たちも給与が良いわけではありませんから、「ゆすり取ったり」「だまし取ったり」することで生活費を賄うわけです。
洗礼者ヨハネは、そのようなことを止めて支え合いな がら生きろ、と人々に言います。現代風に言えば相互扶助の生き方。古代パレスチナ地方の農村風の生き方と言 えましょう。現代でも、元々都会に生まれ育った地の人であれば別ですが、地方から出てくればコミュニティー との繋がりは断たれ、自分の力だけで生きなければいけません。人間関係の分断がなされます。
洗礼者ヨハネの言う悔い改めの具体的な形は、今風に言えば相互扶助ですが、それよりも深みを持っています。主イエスの言葉に直せば「互いに愛し合いなさい」、つまり「お互いに相手を大切にしなさい」です。洗礼者ヨハ ネは具体的な形で人々に悔い改め、つまり主イエスに従う生き方を示しましたから、物のやりとりのような表現 になりましたが、そこには単に物品を補い合う関係では 無く、心から相手のことを思っての支え合いがあるわけです。
今日は降臨節第3主日で、アドベントキャンドルの3番 目に火が灯されました。喜びのキャンドルです。洗礼者 ヨハネの示す道、主イエスに従う備えの道は険しい道でもあるでしょう。しかし、その先には真の喜びがある。私たちと共に歩んでくださる主イエスの道がある。その ことを今日は分かち合いたいのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年12月5日 降臨節第2主日説教より
(ルカによる福音書 第3章1~6節)
教会問答によれば、教会とは「主イエスの・キリスト にあって神に生きるすべての人の集まりで、神の家族、キリストの体、聖霊の宮と言われています」とあります。「神に生きる人」。洗礼式の誓約では「あなたは、主イエス・キリストにまったく依り頼みますか」と問われる箇所がありますが、キリストに完全に自分を委ねる、それが「神に生きる人」であると言えるでしょう。この誓約の問いには「神の助けによって寄り頼みます」と答 えます。面白いですね。キリストに自分を委ねることすら、神の助けが必要なのです。自分の力だけでどうこうできるわけではないのです。しかし、この洗礼式での誓約はクリスチャンとしての指針です。私たちキリスト者 一人一人のコンパスです。
私たちにとっての指針はいくつかありますが、その土台はキリストです。福音です。洗礼者ヨハネが備えてくれた救いの道です。その道を歩むことつまり、「キリス トにまったく寄り頼む」こと。そのような生き方は実はものすごく困難なことかもしれません。なぜなら、自分自身をすべて誰かに委ねようとすれば、自分が良いと感じている部分だけでなく、自分が嫌だと感じている部分もさらけ出さなくてはならないからです。
しかし、主イエスはゲッセマネの園での祈りで、神に従いたくないと感じている部分すらもさらけ出しまし た。ザカリアも天使ガブリエルに「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と「信じられない」との思いを伝えました。その結果ザカリアは口が利けなくなりますが、彼がヨハネ誕生を目にして信じたとき、 人々の前で口が利けるようになります。
私たちも自分自身について好きな部分だけではなく嫌いな部分もあるでしょう。それは言わば私をお作りになった神への不平とも言えます。しかし、神は私たちの良いと思える箇所だけでなく、良くないと思っている部分も含めて愛しておられるのです。
しかし、私たちは少なからず外からの力によって自分の人生を愛せないことがあります。災害による被害や愛する人の死。貧困による生活苦やそれに伴いDV に至ることもあります。また差別によって自分自身として生きることが困難になることもあります。
そのような状況下にある人たちが、時に自分自身が 「私は愛されるために生まれた」と思えるよう、小さな働きを続けていく。それも教会の大きな歩みでしょう。 一人のクリスチャンとして、教会として、洗礼者ヨハ ネが備えた道を歩んでいきましょう。
あなた自身が「愛されるために生まれた」と心から感じられるよう、あなたに連なる人が「愛されるために生 まれた」と信じられるよう、ご一緒に歩んで参りましょ う。
(司祭ヨハネ古澤)