牧師の小部屋 ⑫
「にじり口」と「方向転換」
千利休の考案した茶室には、今も同じだそうですが、二尺二寸四方の「にじり口」という入り口があるそうです。約66センチ四方の出入り口ですからかなり狭い。屈まないと入れない。そして、四畳半の茶室。「天下人でも、一旦にじり口をくぐった後は全て平等な人間になる」と千利休は考えたそうです。また狭い入り口ですから、武士は刀を外に置かなければ刀が邪魔になって茶室へ入ることができない。茶室ではそこにいる全員が平等な人間となる。だから武器は不要ということでしょう。
二尺二寸、約66センチ四方の「にじり口」。その入り口から茶室に入ろうとすれば、膝を曲げて体を前にたおして床に手をつき、「にじり、にじり」と進まなければ、体を低くしなければ入れない。洗礼者ヨハネの言う「悔い改め」も同じようなことかもしれません。「悔い改め」は直訳すれば「方向転換」です。相手の声が聞こえづらいとき、私たちは顔を横にして耳を相手の方に向けることがあります。これも方向転換です。顔の向きを変えるわけですから。また、体を倒していつもと違う視点から周りを見てみると違った風景が広がります。
以前、子どもが室内の壁を指さして「とんちゃん、虹があるよ」と口にしたことがありました。指さされた壁を見ても何もありません。しかし、子どもの目線になるよう膝を曲げて顔を下ろしてみると、ガラスに反射した光が虹色になって壁に映っていました。
私たちがキリストのメッセージに耳を傾けようとすれば、かなり視線を落とし、視点を変える必要があるのかもしれません。だって、神さまは私たちのために赤ん坊としてこの世に来られるということをされたのですから。ものすごく体を曲げてくださった。「悔い改め」「方向転換」とは、その低みに立たれたキリストの口に耳を持っていくことではないかな、と感じます。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑪
「預言者の言葉に想う」
2014年3月2日付けの「琉球新報」には以下の記事が掲載されました。
『1974年に那覇市小禄の聖マタイ幼稚園そばの下水道工事現場で起きた不発弾爆発事故から2日で40年。事故は幼児を含む死者4人、重軽傷者34人を出した。事故を体験した元園長の鬼本照男さん(85)=豊見城市=は「被害者を出さないためにも事故を風化させてはならない」と話している。
74年3月2日、工事現場で重機が基礎工事用の鉄杭を打つ中、旧日本軍が使用した機雷に触れ爆発した。土砂で人が生き埋めになり、重機や鉄杭が吹き飛んで車両や民家に直撃。その日幼稚園では、園児や父母ら約400人が参加しひな祭り会が開かれていたが、爆発音と地響きで園内に悲鳴がこだましたという。
事故後も不発弾爆発による住民の負傷は相次ぎ、2009年には糸満市で作業員が重傷を負った。「教訓が生かされていない」。繰り返される悲劇に心を痛める。
幼稚園はその後豊見城市に移り、事故現場は当時の面影はない。「記憶をとどめないといけない」と事故の風化を懸念する。2日は教会へ礼拝し、祈りをささげる。鬼本さんは事故を現在の基地問題と重ねる。「国の理屈の上に私たちの暮らしがあることは不条理だ。平和で安心して暮らせる社会であってほしい」と話した。』
幼稚園のある小禄聖マタイ教会は聖公会の教会です。以前沖縄を訪れた際、移転後の教会に宿泊ました。沖縄ではいまも米軍基地建設が進められ、「台湾有事」を想定した武器配置が行なわれています。戦争は「戦後」も続きます。「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2:4)という預言者の言葉を今一度、噛みしめたいと思うのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年6月4日 三位一体主日・聖霊降臨後第1 主日礼拝説教より
(コリントの信徒への手紙 第13章11~13節)
本日の使徒書には「完全な者になりなさい」との呼びかけがあります。辞書を繰ってみますと、「すべてそなわっていて、足りないところのないこと」等とあり、「完全」がいかにハードルの高い言葉であるかがわかります。しかし今日の使徒書にある「完全な者」とは「正しい状態」を指す言葉です。
この「正しい状態」とは私たちがバラバラに到達すべき目標ではなく、私たちが互いに欠けている部分を正し合い、また互いに不和を取り除くことによって辿り着くべきものを意味します。そしてパウロは、この「正しい状態」について手紙の中で、「共同体の一致の完成」と見ているのです。
お互いに補い合い、互いの存在に敬意を払い達成されていく「共同体の一致」。それは兄弟姉妹と「励まし合い」「思いを一つにし」「平和を保つ」状態と言えます。ちなみに「思いを一つにする」とは考えの統一ではなく「皆で考えなさい」という意味です。教会共同体の一人ひとりがキリストの生き方や心を自分のものにしようと考え努めるとき、そこには共同体のキリストによる一致が生まれます。そのとき、「愛と平和の神が」私たちとともにおられることが分かるのです。
年齢、ジェンダー、ルーツ、経済状況等々。様々な側面から人々を分断しようとする力が私たちの社会に浸透してきています。しかしキリストを中心に思いを一つにするとき、これら分断の根拠とされているものは、実は交わりの豊かさの根拠であることに気づきます。互いに補い合い、互いの存在に敬意を払いながら辿り着くキリストの平和 = 一致への道程です。
(司祭ヨハネ古澤)