2021年1 月31日顕現後第4主日礼拝説教より
(マルコによる福音書 第1章14節~20節)
今日の福音書で主イエスは「権威ある者」と記されています。そして、権威ある者である主イエスの言葉は、汚れた霊をも従わせるのでした。汚れた霊は、主イエスが誰であるかを的確に言い表します。「神の聖者だ」と。「神の聖者」つまり、「神の人」です。
一方、律法学者は民衆に教え指導する立場でしたから、十分に権威ある立場でした。その教えは、先人から受け継いだ知識に依っていました。古くからある律法を、自分たちの時代にどのように適用するか、どのように解釈するのかを考え、人々に教えるのです。律法と生活が密接な関係にあるユダヤの人々にとって、律法学者はなくてはならない存在です。しかし、限界がありました。マタイやルカ福音書で主イエスが語るように律法学者たちの教えは「人には背負いきれない重荷を負わせる」結果になることもあったのです。(マタイ 23:4 、ルカ 11:46)
主イエスの教え・言葉は人々に重荷を負わせることはありませんでした。昨年の聖愛の年間聖句を思い出してください。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とあったように、主イエスの教え、言葉は人々を癒やし解放するものでした。
今日の箇所でもそのことが描かれています。主イエスが汚れた霊に「黙れ。この人から出て行け」と命じると「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」と福音書は語ります。この男性が汚れた霊に取りつかれていた間、どのような病気になっていたのかはわかりません。それがどのような症状であったにせよ、汚れた霊が出ていった結果、その病気も癒やされたことでしょう。また、この男性は病気を患っていた間は、会堂で祈ることもできず、症状によっては家に帰ることできなかったでしょう。それまでのようなコミュニティへ参加が 出来なかったわけです。主イエスが汚れた霊を追い出したことにより、この男性は病気が癒やされ、自信のコミュニティに戻ることができたのでした。
主イエスの権威ある教え・言葉は私たちを癒やす、命を与える、生かすものであることが分かります。扉を叩くキリスト、という有名なモチーフがあります。多くの画家がこのモチーフで描いています。家の扉の前にノックしようと拳を上げているキリストが立っています。その扉を見てみると、ドアノブがないことに気づきます。そう、扉は中からしか開かないのです。扉を開けるのは私たちです。
権威ある者として悪魔の業を滅ぼされた主イエス。絶えずキリストは扉を叩いてくださっています。共に喜び、共に苦しみ、共に泣いて下さる。そのような神に信頼して、私たちは、神と人との交わりを強めて参りましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年1月24日 顕現後第3主日礼拝説教より
(エレミヤ書 第3章21節~第4章2節、マルコによる福音書 第1章14節~20節)
私たち人類は多くの不思議な現象に対して、それが起こる理由を見いだしてきました。 病に対してもそうです。病気の原因を突き止め、治療法を見いだして健康に生きることができるようになりました。それはとても素晴らしいことですし、幸せなことです。しかし他方、私たちは神の業に対して鈍感になり、理由が見つからない事柄に対しては目を背けやすくなりました。ある現象が神の働きである、と口にすることに対して臆病になってしまったのではないか と感じるのです。
「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」との一言に従った漁師たち。彼らは本当に 主 イエスと初めて顔を合わせたのかもしれません。そうであるなら、 主 イエスは彼らに信用されるに足る実績をどのように示したのでしょうか。もしかしたら、そのようなものは必要無かったのではないでしょうか。なぜなら、神は私たち人間を愛し続けてきたという歴史があります。今日の旧約聖書には「背信の子らよ、立ち返れ。わたしは背いたお前たちをいやす」との神の言葉があります。神から幾度となく離れてきた人間を、神はその度に赦し癒やしてきたのです。漁師たちはそのような愛を、常に人間を大切にし続けてこられた愛を主イエスから感じ取ったのではないでしょうか。だからこそ 主 イエスに信頼して、従ったのでしょう。自身の将来を主イエスに託したのです。
主イエスは四人の漁師に声を掛けてからご自身の働きを始められました。それは、貧しい人、病に伏している人、悪霊に取り憑かれた人、目の見えない人、手や足の萎えている人たちの隣人になる、そのような働きでした。どの人も、当時の社会から仲間はずれにされている人々、神から見放されていると自他共に考えられていた人々です。「 あなたは一人ではないよ。あなたのことを神は大切に思っているよ」 、 そのことを全身全霊を尽くして伝えたのでした。その旅に最初に従ったのが四人の漁師です。初めて顔を合わせた 主イエスに信頼しました。なぜでしょう。その四人が生まれてきたのは神の働きだったから。そのような答えはおかしいでしょうか。私たちが 主 イエスを信じるのはなぜか。私たちが生まれてきたのもまた、神の働きだから。私たちは生まれるときから神のみ手に抱かれているからではないでしょうか。
このコロナ禍で生活を大きく変えられた人が沢山います。私たちが直接できることは 多くないかもしれません。しかし、分断ではなく連帯を、裁きではなく赦しを、拒絶ではなく理解を求めて歩みましょう。これらは、神が私たち人間に対してずっと行ってこられたことです。私たちも四人の漁師たちのように、 主イエスの呼びかけに応えましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年1月17日 顕現後第2主日礼拝説教より
(サムエル記上 第3章1節~10節、ヨハネによる福音書 第1章43節~51節)
今日で阪神淡路大震災から 26 年になるのですね。神戸市のホームページに、ご遺族からの追悼の言葉が掲載されていました。今年 47 歳になるお寿司屋さんです。当時は 21 歳、スキーから帰ってきた翌日に 震災が起こったそうです。
本日の旧約聖書、サムエル記が読まれましたけども、サムエルが神さまから呼ばれる、召しを受ける、その場面の物語でした。神さまがサムエルをお呼びになるのですが、サムエルは自分の先生であるエリが呼んだと思い、エリの部屋へ行く。しかしエリは「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言う。このことが二度起こりました。三度目には、エリもサムエルを呼ばれたのは神さまであると気づき、「もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と適切なアドバイスをします。
冒頭には「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」とありますから、サムエルの師であるエリも、三度同じ事が起こるまでは神さまの呼びかけであることに気づかなかったのでしょう。しかし、三度同じ声が聞こえても、きちんとエリの許へ足を運ぶサムエルは素直と言いますか、本当に真っ直ぐな少年だったのだなと 感じます。
比べる と可愛そうなのですが、本日の福音書に登場したナタナエルは、 友人の声よりも巷の声を信じてい たようです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。 主イエス の出身地であるナザレは、当時一段下に見られていたのでしょう。ナタナエルはナザレ出身のような人物が救い主であろうか、と言います。しかし、フィリポの招きによって「来て、見て」、実際 主 イエスに出会うことで、信じる人へと変えられたのでした。サムエルも、ナタナエルも、近しい人を通して神さまに、主イエスに従う者とされました。私たちの時代も「主の 言葉が臨むことは少 なく、幻が示されることもまれであ」る時代かもしれません。しかし 確実に主は私たちを招き、呼びかけておられます。「来て、見る」。実際に出会 う。声を探し求める。様々な声に耳を傾けましょう。私たちの時代も 聖書の時代と同じです。誰かを通して私たちは神さまに、キリストに出会うのです。
冒頭でご紹介したご遺族の追悼文は、このような一文で 締め られています。「目を閉じるといつも、「よっちゃん。がんばり、がんばり」っていうお母さ んの声が聞こえます。お母さん、いつも支えてくれてありがとう」。
私たちも心に 留める人の声が聞こえること があります。そし て 主イエスもまた、私たちに呼びかけています。 私たち一人一人と共におられます。あなたに呼びかけています。「一緒にいるよ、大切に思っているよ」と。祈りを持ち続け、そして希望を持ち続け、共に歩みましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年1月3日 降誕後第2主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第2章13節~15節、19節~23節)
年末、天王寺の駅前に用事があり、近鉄百貨店の前を通りました。 三人の救世軍の方が社会鍋の募金活動をされていました。「だいたん に銀一片(ひとひら)を社会鍋」と飯田蛇笏(いいだ だこつ)が詠うように、日本でも 1904 年頃から始まった「社会鍋」。長らく多くの人々の年末の支えとなりました。
アメリカにおいて1893 年の恐慌で失業した多くの船員とその家族に温かいスープを提供しようとした救世軍士官、ジョセフ・マクフィー大尉の働きによって広まった「社会鍋」「クリスマス・ケトル」は、世界中に広まっていきました。それは、人間が神から与えられた最も重要な贈り物、「愛」というものが目に 見える形で広まった一つの例でもあります。
社会鍋は完全な匿名です。少し前でしたら当たり前ですが、昨今は匿名の募金自体が少なくなりました。ネット上での募金はどうしても個人の痕跡が残ります。それが悪いわけでは全くありません。しかし、街頭での募金。いまその瞬間、手許にある現金からいくらかを箱に入れる。手渡しの温もりを感じます。
神さまが人間を造られた際に、私たち人間に与えられた目に見えない贈り物。それもやはり手渡しだったことでしょう。誰かを愛する・誰かに愛されるという恵み、誰かを信じる・誰かに信じられるという恵み 、希望をもつという恵み。私たちは、主イエス降誕の出来事を通して、主イエスを私たちの間に送られた方、私たちをお造りになった方へと思いを馳せます。
今日の福音書を見ると明らかですが、クリスマスに起こったことは喜ばしい出来事だけではありませんでした。とても悲惨な、おぞましい出来事がありました。救い主がお生まれになる、そのことに危険を感じた権力者によって、主イエスと時を同じくして 生まれてきた幼子たち、二歳以下の男子が殺されてしまったのです。 ヨセフはやはりエジプトから地元に帰ることを躊躇しました。恐ろしかったでしょうし、出来事があまりにも悲惨で悲しかったからです。しかし、主が共におられることをヨセフは聞きました。主がヨセフを愛していることを知り、ヨセフは主を信じて希望を持ったのです。だからこそ、一歩を踏み出しました。そのヨセフの行動は神のご意志が成就するための大きな一歩だったのです。
2021年の最初の主日。私たちも主が私たち一人一人に向けてくださっている愛を再確認しましょう。主が共におられることを信じましょう。そして、このような困難な中ですが、 希望を持ちましょう。その希望は他者を照らす光となります。社会鍋・ クリスマス ・ケトルのような、暖かい愛が世界中に広まったように、私たちの希望も、隣人への愛として用いられます。
新しいこの一年が、主と共にありますように、私たちの信じる心を育む一年となりますように、希望に照らされる一年となりますように、主の変わらぬ愛を感じる一年でありますように。共に互いに祈り合いましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年1月1日 主イエス命名の日 礼拝説教より
アンデレ 磯 晴久 主教 説教要旨
(出エジプト記 第34章1節~9節)
さて 1月1日は、教会暦では主イエス命名日です。神さまのひとり子に、「イエス」と言うお名前が付けられたことを憶える祝日です。特祷では、「どうかこのみ名によってみ民に力と平安を与え、その尊いみ名をすべての国に宣べ伝えさせてください。」とお祈り致しました。旧約聖書では、神さまの名前を知ると言うのは、神さまの力を我が内に頂くと言う意味があります。たとえば、エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を救出する使命を受けたモーセが、神さま、あなたのお名前は何ですか、と尋ねます。「わたしはある」、この「ある」は「過去から現 在、未来、永遠にわたってあなたと共にいる」ということを現しています。モーセは、このことを通して、神さまの力を頂いて、救出大作戦へと旅立って行きます。(出エジプト記3:13以下)
「イエス」と言うお名前は、旧約聖書のヨシュアと同じ意味を持つ名前です。「神は救い」と言う意味です。私たちがこのお名前を知った時、同時に天からの声を聞くのです。イザヤ書第49章15節~16節「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の体内の子を憐れまれずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても、わたしはあなたを忘れない。見よ。わたしはあな たを手のひらに刻みつけた。」という声を聞くのです。神さまから、あなたの名前を私の掌(たなごころ)に刻んだ、わたしはあなたを決して忘れない」という声を聞くのです。
先ほど拝読した出エジプト記第34章1 節以下では、幾千代(ほぼ永遠に近い表現)にわたって恵みを下さる神への賛美の言葉の後、モーセは神さまに祈ります。「わが主よ、もしわたしがあなたの目に適うなら、どうかわたしたちの中にあって共に進んでください。わたしたちはかたくなな民ですが・・・・」と祈ります。
新しい年が始まります。まだ新型コロナウィルスとは、付 き合っていかなければなりません。主イエスの名を頂き、主イエスの力を頂き、「神さま、どうかわたしたちの中にあって共に進んでください。」と祈りつつ、新しい年の歩みを始めましょう。
新しい一年が心豊かで、平和な一年となりますように、父と子と聖霊の御名によって アーメン
(アンデレ 磯 晴久 主教)