2020年2月23日 大斎前主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第17章1節~9節)
私たちは皆、キリストに捕らえられた存在です。毎週礼拝を行うため教会に集まりますが、このことをよく「教会に集まって」ではなく、「教会に集められた」と表現します。今日の福音書では3人の弟子が主イエスに連れられて山へ登り、主イエスの変容を、神さまの啓示を目の当たりにしました。目の前で自分の先生が光り輝き、過去に活躍した預言者たちが現れ、雲から声がする。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と。弟子たちがどれだけ恐ろしい思いをしたか容易に想像できます。
恵み深くも怖い経験した3人の弟子ですが、山を降りて少し一息ついた後、この弟子たちは鼻高々だったかもしれません。なぜなら、一生に一度あるかないかの経験をしたのですから。しかし、この弟子たちが忘れてはならないことがあります。それは、主イエスがこの弟子たちを神の啓示の場に連れて行ってくれたということです。神のみ心に適う主イエスが、弟子たち3人を選んで、山に連れて行ったのであって、自分たちの思いで山へ登ったわけではないのです。
私たちも同じです。洗礼を受けたのが幼児のときであろうが、物心ついてからまた成人してからであろうが変わりはありません。自分の意志で洗礼を受けた・教会に通うになった、知らぬ間に親に洗礼を受けさせられていた、学校から言われて教会に来た。動機は何であれ、それらは全て各々に合った方法で神さまが導いてくださったのです。もちろん、その導きに従うかどうかは私たちの意志にかかっています。主イエスに連れられて山に登った弟子たちも、神の啓示を受けてキリスト者となったパウロも、その道を断る機会は多々ありました。しかし、最後には神さまの導きに従ったのです。私たちも同じです。
そのような私たちは、主イエスから福音を告げ知らせる使命を与えられています。この場合の「福音を告げ知らせる」とは、信者を増やすことではなく、「神さまは全ての人を愛しておられる」と示すことです。神さまは「あなたの住む地域のことはあなたがたが一番よく知っている」との想いから、私たちに重要な役割を預けて下さった。そのために私たちは捕らえられたのです。
人々の分断が進む今の時代では、一人一人のその人自身を見ることが神の愛を示す一つの形かもしれません。なぜなら、主イエスは「弟子1、弟子2」を連れて行ったのではなく、「べテロを、ヤコブを、ヨハネを」連れて行ったのです。神さまは「人間1、人間2」ではなく、あなたを、わたしを捉えたのです。常に一人一人に目を向け、愛を注いでくださっているのですから。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年2月16日 顕現後第6主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第5章21節~24節、27節~30節、33節~37節)
今日の福音書は、十戒やそれに付随する律法に主イエスが補足を入れる、そのような場面です。「殺すな」という掟には「腹を立てるな」、「仲直りしてから神への儀式を行うように」。「姦淫するな」には「みだらな想い出他人の妻を見るな」、つまり「心の中で姦淫するな」。「偽りの誓いをたてるな」には「一切誓いを立ててはならない」。これらは一見すると共通項が無いように感じますが、「人間を大切にすることは神を大切にすることだ」という主イエスのメッセージがこの三つの補足の根底にあると思います。
人を殺すことと、誰かに腹をたてて、「ばか」、「愚か者」と口にすることは、事の重大性において天と地ほどの差があるように感じます。「ばか」、「愚か者」は侮辱の言葉です。親心を前提とした叱咤はなく、相手の存在を否定するような心の状態から出る言葉です。ある牧師さんは、主イエスがこの補足を必要としたのは「人間が同じ人間に対して、そのように罵倒することは、人間扱いしないということなのです。その人の存在そのものを否定していく、他者抹殺を感じておられたのだと思う」と仰っています。
主イエスは気づいておられたのでしょう。最初は小さくても、それが相手の存在を否定する心、特に妬みや蔑みを前提とする心であるなら、その心は膨張して、いつしか相手を抹殺するものとなることを。それは、主イエスの人気や権威を妬んだ人々が、主イエスを十字架に架けるに至ったことからも見て取れます。
私たちにとって、唯一の「絶対」は神だけです。つまり私たちは、ほんの少しの先のことでも100%確実に行うことはできない。それは、自分の心の持ちよう一つに関してもそうなのです。だからこそ、私たちは絶えず祈り、自分の選択が正しいか、またどちらの選択肢を選ぶかを主に尋ねます。ダイナマイトを用いるエンディングを選ぶのか、仲直りのエンディングを選ぶのか。もちろん、実際の世界では童話のようにエンディングだけを選ぶことはできません。小さな妬みの心が膨張・成長して、誰かの命を奪う結果を招くように、始まりは私たちの心のもちようにあります。だからこそ、私たちは日々の中での小さな選択にも、一旦立ち止まり、『然り、然り』『否、否』と、自分の考えが神のみ心に適ったものかどうか見極めて行きましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2020年2月9日 顕現後第5主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(マタイによる福音書 第5章13節~20節)
本日の福音書の前半部には、二つの「あなたがたは~である」という主イエスの言葉が出てきます。「あなたがたは地の塩である」、そして「あなたがたは世の光である」。この箇所は何年か前の教区礼拝で大西主教が説教をされた箇所です。大西主教はその説教で「『あなたがたは地の塩、世の光になりなさい』ではなく『~である』と主イエスは仰っている。つまり、私たちはすでにそうされている。地の塩とされており、世の光とされているのだ」とお話しになりました。
私たちはしばしば「自分の信仰は小さい」とか「自分はクリスチャンに相応しくない」と思い、またそのような発言をすることがあります。しかし、何と比べての信仰なのでしょうか。キリスト者に相応しい姿とは何でしょうか。
塩加減というものがあります。それぞれの料理には適度な塩が欠かせません。塩はそれ自体が主役になることはありません。他の食材の味を引き立たせる存在、言わば料理の脇役です。しかしなくてはならない存在です。
光もそうです。私たちが生きて行くために光は欠かせません。しかし、普段の生活において光を特別意識することはほとんどありません。主は私たちをそのような存在としてこの世にお遣わしになったのです。「偉大な・立派なキリスト者」(そのような存在があるとは思えませんが)ではなく、他の存在を引き立たせる役目を持つ者として。言い換えれば、他の命を生き生きとする役割を持つものとして。
司祭ヨハネ古澤
2020年2月2日 被献日主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第2章22節~40節)
本日の特祷では主イエスについて「主の民の栄光、諸国民の光として迎えられた」と表現しています。暗い部屋に灯りがともされると見えなったものが見えてきます。日課のルカ福音書では、幼い主イエスに出会ったシメオンが母マリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」、「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と告げます。私たち一人ひとりの心にある、隠れた想いが顕にされることによって、思いもよらなかった自身の想い・考えに直面する。これもまた私たちを照らす光、主イエスの働きであることがわかります。
「わたしたちも主にあってみ前に献げられ、この世において主の栄光を現すことができますように」と祈りますが、私たちは主イエスのように神さまに自らを献げ続けることができるでしょうか。神の者となり得るのでしょうか。自分が大切と信じていることよりも、神さまのみ心を尋ね求めることができるでしょうか。
光は陰もつくり出します。それは従う者にとっての厳しさでもあります。光によってあらわになったのは、それまで自分が信じていた事柄の間違いや見たくなかったものかもしれません。私たち自身も剣で心を刺し貫かれます。
しかし主イエスはすべての人の慰めです。全てのイスラエルの慰めを求めていたシメオンの願いを、主は聞いてくださっていました。シメオンの賛歌はシメオンの心からの喜びが溢れています。主イエスに従う道は厳しさを伴います。しかし、厳しいだけでは終わりません。その道は私たちの希望なのです。
(司祭ヨハネ古澤)