2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 12章38~44節)
主イエスの時代からさらに千年近く遡ると今日の旧約日課の時代に辿り着きます。そこにも貧しい女性が登場します。預言者エリヤが水とパンを乞うと女性は「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」と答えます。
しかし、この女性は「恐れてはならない」との言葉と共に自分のためにパン菓子を持ってくるようにとのエリヤの願いを聞き入れ、まずはエリヤのためにパン菓子を作ってエリヤをもてなしました。エリヤは「恐れてはならない」とこの女性に告げましたが、彼女は恐れずにパン菓子をつくったでしょうか。もしかしたら「あとは死ぬのを待つばかりです」と言っていたように、諦めの気持ちと共に最期の仕事としてエリヤのために、そして息子と自分のためにパン菓子を作ったのかもしれません。壺の中にある一握りの小麦粉をかき集め、瓶の中の本当に僅かな油を最後の一滴までしたたらせてエリヤをもてなしたことでしょう。旅人をもてなすことは、神をもてなすことと同義だったからです。彼女は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛したわけです。
女性からすれば最後の食事の席にエリヤを招いたわけですが、その立場は逆転します。失意のうちにエリヤをもてなした女性は、その息子と共に神さまにもてなしを受ける立場に置かれていました。「恐れてはならない」というエリヤの言葉が実際のものとなったのです。エリヤを養ったたこの女性は神に養われていたのでした。
神の国は1クァドランスを献げたあの女性のものである、彼女は神さまに招かれていると主イエスは言いたかったのでしょう。なぜなら心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして神を愛している証しとしての1クァドランスだからです。彼女の全財産を献げたから招かれたのではなく、彼女は神に招かれている・養われていることを感じていたのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年11月3日 聖霊降臨後第24主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 12章28~34節)
本日の福音書で、律法学者から第一の掟=最も重要な掟は何かと問われた主イエスは二つの掟を示しました。これらはそれぞれ、申命記6章4-5節とレビ記19章18節からの引用です。
エジプトから脱出して約束の地を目指すために、神に導かれたモーセがイスラエルの民と荒野を旅する道中でこの二つの掟も与えられました。この間、他にも多くの掟が神から与えられていますが、主イエスはこの二つを特に選ばれました。繰り返しになりますが、奴隷状態で苦役に就いていたイスラエルの民の叫びを聞いた神が、モーセをリーダーに立てて民をエジプトから脱出させ約束の地へと導く、その道中で与えられた掟です。ですから、イエスが示した二つの掟はイスラエルの民=ユダヤの人びとに向けての掟でした。
主イエスが第二の掟として挙げた「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19章18節)ですが、18節全体は「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」です。これは約束の地を目指す旅の途中で与えられた掟です。つまりここで言われている隣人とは、共に旅をしているイスラエルの民同士のことを指します。
しかし、主イエスはその範囲を広げました。つまり、元々はイスラエルの民同士に限定されていた「隣人」という概念が主イエスを通して民族と人種の壁を壊し全ての人へと広げられたのでした。その恩恵をいま私たちは受けています。まさに神を「精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」愛し神の導きに従われた主イエスが、場所と時を超えて私たち一人一人を隣人として愛してくださった。このことが十字架の出来事を通して示されました。その大きすぎる恵みが示されているからこそ、私たちは「精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛」します。愛さざるを得ないわけです。
(司祭ヨハネ古澤)