2019年10月27日 聖霊降臨後第20主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第5章1節~12節、シラ書 第44章8節~10節)
本日は逝去者記念礼拝です。教会に連なる全ての逝去者を覚えて共に祈ります。戦前戦中を生きた方など、一人ひとりが異なる人生の旅路を歩まれました。そして皆さんがそれぞれの人生で聖書を味わわれたのだと思います。
聖書は同じ個所でも、どのような視点から読むかによってメッセージが大きく変わります。それは、同じ人が同じ聖句を読んでも、その人がその時に置かれている状況によってメッセージが変わることを意味しています。
今日の福音書では、イエスさまが「心の貧しい人は幸いである」と言います。ある聖書では「幸いだ、乞食の心を持つ者たち」と訳されています。「乞食の心」というのはドキッとする表現ですが、イエスさまの時代は人口の三分の一が奴隷であり、人口の大半が食べるにも必死な懐事情だった時代です。「乞食の心」とは、神さまを心から求めている状態と指すのでしょう。
何れにしましても、人生が上手く言っているときは、「幸いだ、乞食の心を持つ者たち」と耳にしても、「これのどこが幸い?」と思うかもしれません。しかし、この言葉が支えとなり、この言葉を耳にした瞬間、癒しを経験するときがあるでしょう。先人たちも、この言葉を耳にして、神さまの働きを感じた瞬間があったことと思います。
「慈悲深い先祖たちの正しい行いは忘れ去られることはなかった」とシラ書は語ります。神さまはその一人一人を忘れない。そして言葉は、今を生きる私たちをも神さまは忘れないことを意味します。
福音書朗読後に歌った聖歌364番にあるように、神の力を受け、希望を受け、光を受け、正義を私たちは受けています。そして私たちは互いを通して神の働きを行っています。私たちより先に神さまと働かれた大勢の人々がいました。彼らは今も神さまのみ許で私たちと共に祈りを続けています。私たちより先に神さまのみ許に帰った人々を、今日は共に覚えて祈りましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年10月20日 聖霊降臨後第19主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第17章18a節、創世記 第32章25節)
本日の福音書には「神を畏れず、人を人とも思わない」ことを自認している裁判官が登場しました。譬えですから実在しないと思いますが、このような裁判官でも、やもめが何度も足を運べばしぶしぶながら、きちんと裁いてくれる。まして、神は人々の叫び声を聞き、裁いてくださるのだよ、とイエスさまは言います。
相手を裁くというのは、言い換えれば自分を守ってくださるということです。祈り求める人を神は守ってくださる、とイエスさまは仰るのです。
しかし一方で、祈りとは格闘である、と今日の旧約聖書は語ります。福音書のやもめが、その社会的な弱さゆえに、裁判官といわば格闘したように、兄弟との関係に悩むヤコブは、夜明けまで神と格闘しました。実際に神と格闘したのかどうかは分かりません。双子の兄であるエサウを出し抜いて長子の特権を奪ったヤコブにとって、兄のエサウに会いに行くのはとても恐ろしいことでした。しかし会いに行かなければならない。「神さま、私をお守りください。兄に会いに行く勇気をお与えください」という祈りは正に格闘であったでしょう。時に祈りとは、祈る人にとってその身に怪我を負うような厳しさがあるのです。
私たちは、他者の重荷を引き受けるために血の汗を流すような祈りをされた人物を知っています。イエスさま、その人です。「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」。ゲッセマネの園で、捕らえられる直前にイエスさまは祈りました。苦しみ悶えながら、「十字架での死を取りのけてください」と。「しかし、あなたのみ心が行われますように」と。つまり「私がこの茨の道を行くことができるよう、お支えください」と祈られたのでした。
本当に困難なとき、「神ともにいます」ということが疑わしくなる時があります。また、そのように悩む相手の気持ちを理解しようとして祈る、その祈りは本当に相手を支えるものとなります。なぜなら、相手を思い祈るその人も、神と格闘しながらの祈りであるからです。私たちは、祈ることで重荷を共に負うことが可能となります。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。主はわたしたちと共に居られます。アーメン。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年10月13日 聖霊降臨後第18主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(ルカによる福音書 第17章11節~19節)
本日の福音書には、「ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」とあります。重い皮膚病を患っている人は、当時、自分のコミュニティから隔離されて生活をしなければならなかったようです。そして、他の人に近づくことも許されなかった。だから、この十人はイエスさまから離れた場所でもって、イエスさまに呼びかけざるを得なかったのです。
イエスさまに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた後、「自分がいやされた」ことを知った彼らはどれほど嬉しかったでしょう。自分のコミュニティへと、自分の家族のもとへ帰ることができるのですから。ですから十人のうち九人が、自身の癒やしを感じても神さまを賛美するため戻って来なかった彼らの気持ちを、私はとても分かる気がします。しかし、イエスさまは言います。「この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。
おそらく私たちは、自分の人生が上手くいっていると感じているときこそ、神さまのことを忘れがちになるのではないでしょうか。「上手くいっている今の状態は、自分の力で手に入れた」と考えがちになります。そのような時こそ一旦立ち止まって、このサマリア人のように、神さまへの感謝を思い出す必要があるのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年10月6日 聖霊降臨後第17主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第17章5節~10節)
私たちは持っているようで持っていないものがある一方で、持っていないようで持っているものがあります。今日の福音書でイエスの弟子たちは、「わたしたちの信仰を増してください」とイエスに頼みます。自分たちが持つ信仰では、この後イエスの弟子としてついて行ける自信が無かったのでしょう。
そのような弟子たちにイエスは言います。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。何とも漫画的な、突拍子もない発言です。しかしこのイエスの言葉は、一見、弟子たちの信仰の無さを咎めているようではありますが、よくよく耳を澄ませてみると、イエスが弟子たちを励ましていることがわかります。
からしの種はとても小さいですね。米粒と並べてみるとお米が随分大きく見える。それぐらい小さな種です。イエスは弟子たちに、「それくらいの信仰をもし、あなたが持っていれば、桑の木を動かすことだってできるのだ」と言います。「からし種の大きさの信仰でそんなことができるのだよ。あなたの信仰はどれくらい?からし種より大きいでしょ?」ということでしょう。
また「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」というイエスの言葉には、「あなたたちは、自分には信仰が足りない、と思っているようだけど、必要な信仰はすでに与えられているのだよ」と、このようなメッセージも込められているでしょう。
このことを、今日の使徒書でパウロはこのように表現しています。「あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」と。
私たちは、おそらくは自信の無さから「自分には立派な信仰はない」と言いがちです。しかしイエスは、「あなたたちに必要な信仰はすでに与えられている」と言うのです。しかし、自分自身が持つ信仰への認識はバランスが重要です。「自分には立派な信仰はない」と思いすぎると、神の働きへの参与を拒否する言い訳になってしまいますが、「自分にはこの上ない立派な信仰がある」というような思いは、その人を傲慢にさせ、他者を傷つける道具になってしまいます。
だからこそ、イエスは弟子たちに「あなたたちは十分な信仰をすでに与えられている」と伝えた直後に、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」と釘を刺します。私たちのこの時代の社会では、どのような場所でも人間同士の主従関係はあってはなりませんが、イエスの時代では、神と私たちの関係を表すのに、主従関係を持ち出すと理解しやすかったのでしょう。
私たちは、与えられて信仰に自信を持つことが許されています。しかし、その信仰も私たちが持っている物も、神さまから与えられているものであることを忘れてはならないのです。
(司祭ヨハネ古澤)