2025年4月27日 復活節第2主日 礼拝説教要旨
(ヨハネによる福音書 20章19~31節)
疑心暗鬼という言葉があるように、疑いの心はその人の前にいるはずのない鬼をも生み出します。弟子たちも「マグダラのマリヤの前には来てくださった復活の主イエスが私たちの前には来てくださらない。私たちは主イエスを見捨てて逃げてしまったのだから、それは当然なのかもしれない。私たちはこのまま捕まり、主イエスと同じように十字架にかけられてしまうのだ」、このような疑心暗鬼に苛まれていたのかもしれません。
復活の主イエスが彼らの前に現れたときのことを、福音書はこのように描写しています。「弟子たちは、主を見て喜んだ」。扉に鍵をかけていた家の中で自分たちの目の前に突然現れた主イエス。その主イエスを見て弟子たちは恐れるどころか驚きもせず「喜んだ」のでした。弟子たちは心のどこかで主イエスが自分たちの前に来てくださることを期待していたのでしょう。おそらく弟子たちは無邪気に喜んだわけではないでしょう。「やはり来てくださったのですか」と涙ながらに喜んだ弟子もいたのではないかとすら感じます。
弟子たちに会いにこられた主イエスは「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」と言いました。それまで弟子たちは主イエスに従う、先に立って進む主イエスの後を追いかける存在でした。しかし、主イエスは弟子たちに「あなたがたを遣わす」と言います。誰かの後から付いていく存在から使命を受けて送り出されたあとは自ら歩む道を選択して進んで行く、そのような存在へと変えられたのです。しかし、彼らは無責任に送り出されたわけではありませんでした。主イエスが彼らに息を吹きかけ、聖霊を与えてくださいました。風は目には見えませんが確かに存在します。弟子たちは目には見えないが確かにそこにおられる聖霊と共に送り出されたのでした。主イエスがトマスに対して言われた「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」という言葉は、時を超えて私たちに対する言葉でもあります。
(司祭ヨハネ古澤)
2025年4月20日 復活日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 24章1~10節)
イエスが十字架にかけられた、その最期のときまでイエスに付き従ったのは女性の弟子たちでした。その女性たちは律法に従って遺体に香料を塗るためイエスが葬られたお墓を訪れます。お墓に着いてみると大きな石は誰かがどけてくれていました。そして驚いたことに、お墓の中には石を動かしたであろう人も、イエスの遺体もありませんでした。何か重大なことが起こっているが、それが何かわからない。胸騒ぎがする。女性たちはこのような心境だったのではないでしょうか。
いま、ここで何が起こっているのかを、いつの間にか女性たちの側に現れた二人の天使が教えてくれました。天使はこのように言います。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。女性たちは耳を疑ったはずです。一昨日の金曜日、女性たちはイエスが十字架につけられ確かに息を引き取った姿を見ているのですから。更に天使は、イエスがあなたたちにお話しになったことを思い出しなさいと語りかけます。「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」と天使たちは女性に告げました。
女性たちの記憶が甦ります。女性たちの中で、以前イエスが仰ったことといま目の前で起こっていることがカチッと繋がりました。「あのときイエスが仰ったことは、このことだったのだ」と。その一瞬から、女性たちの頭の中はイエスが語った言葉で溢れかえったでしょう。そして女性たちの心は喜びで満たされたはずです。なぜなら、イエスが語られたことは全て真実だったのです。神はすべての人を、そしてわたしを愛しておられる。そして死は終わりではない。女性たちの心は燃えていました。この大きな恵みを喜びを伝えずにはいられない。これが復活日の朝に起こった出来事でした。
(司祭ヨハネ古澤)
2025年4月13日 復活前主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 23章1~49節)
神さまの目的は、人々をご自分の交わりに集めることだと私たちは知っています。放蕩息子のたとえや、失われた羊のたとえ、失われた銀貨のたとえを私たちは聞きました。神さまは、ご自分のもとから迷い出てしまった人々をもう一度、ご自分との交わりに回復させようとしています。この意味において、キレネ人シモンのエピソードはとても象徴的です。たまたまそこにいたシモンが、イエスさまの十字架の横木を運びイエスさまの後について歩むことで、イエスさまの十字架に直面し、そしてイエスさまを信じる者となった。彼は最初何も意識していませんでした。しかし神さまは彼を用いられた。マルコ福音書にはキレネ人シモンの二人の子どもの名前が出てきます。アレクサンドロとルフォスです。この二人の子どもは福音記者マルコの教会で知られた人物だったのでしょう。キレネ人シモンが横木を運ぶという神の働きに ー意識的にではなくともー 参与したことによって、その子どもたちも神の交わりに加えられたのでした。
十字架上でイエスさまは祈ります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。祈祷書295ページから始まる共同懺悔には、「このほか気がつかないでいる多くの罪を/主よ、お赦しください」(297ページ)との祈りがあります。私たちもまた、自分が何をしているのか理解しない中で神さまとの交わりを傷つけてしまうことがあるでしょう。それは隣人を傷つけることと同義です。そして一方で、キレネ人シモンと同じように、私たちは意識しないうちに ー知らないうちにー 神さまに用いられ、神さまの交わりに加えられていくのです。それは神さまとの正しい関係の回復です。
(司祭ヨハネ古澤)