2019年6月30日 聖霊降臨後第3主日礼拝説教より 「キリストを中心に」
(ルカによる福音書 第9章51節~62節)
エルサレムへの途上、イエスと弟子たちはサマリアを通りました。ユダヤ人とサマリア人の関係は断絶していましたから、サマリアの村人がイエスを歓迎しないのも無理はありません。イエスの弟子たちは、イエスに反対するサマリアの人々を見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いますが、イエスは敵を滅ぼすことを望みませんでした。それは、神が示されている愛ではないとわかったのです。弟子たちはイエスの神の力を示したかったことでしょう。しかし、神の愛の前にはその想いを抑え、耐えなければいけなかったのです。
旅を進めたイエスたちは、イエスに従う3人の人に出会いました。1人目の人は、イエスに従うことで生活の保障を得ようとしたのかもしれません。その人にイエスは、自分には夜を明かす場所さえもっていない。全て他者を頼るほかない、と言います。
2人目はイエスから声をかけられました。その人自身、従う準備はできていたようです。しかし、十戒を大切にしていたのでしょう。父親を葬りにいきたいと願います。イエスはそれを許しません。3人目も、家族に暇乞いにいきたいと願いますが、イエスは許しません。
イエスに従うとは、全ての中心をキリストに置くことを意味するようです。イエスに身を預けます。それは神に、他者に身を預けることでもあります。そして時に、自分自身が変えられます。
ジャン・バニエは友人であるパリのビジネスマンについて物語ります。その友人は仕事一筋でとても忙しい人だったそうです。あるとき、彼の妻がアルツハイマーを患いました。彼はバニエにこう言いました。「妻を施設に入れることはとてもできませんでした。だから、私が面倒を見ています。私が妻に食べさせ、入浴させています」と。ずっと忙しかった彼は変わったそうです。「私はすっかり変わりましたよ。ずっと人間らしくなったんです」とその友人は言ったそうです。そんな彼から一通の手紙がバニエに届きました。「真夜中に妻に起こされました。ほんの一瞬ですが、霧が晴れたように彼女ははっきりしていて、こう言いました。『あなた、あなたが私にしてくれている全てのことに、ありがとうって言いたいの。』そしてまた、霧の中へ戻って行きました。」
キリストの愛は相手を滅ぼしません。そして、キリストの愛は愛の業を行う者に自分を変えてしまうという傷を負わせますが、その傷を放ってはおきません。愛の業以上の癒しの恵みを主は与えてくださいます。キリストに従う道はキリストが全ての中心に置かれます。それは、私たちがキリストのみ手に、愛に溢れたみ手に掴まれているからに他なりません。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年6月23日 聖霊降臨後第2主日礼拝説教より 於:大阪城南キリスト教会
(ルカによる福音書 第9章18節~24節)
教会では、私たちが起こした行動について神さまを主体として表現することがよくあります。例えば、今日も私たちは礼拝のため教会に集まっていますが、「私たちが教会に集まった」ではなく、「私たちは教会に集められた」と表現することがあります。他にも、洗礼を受ける時などは特に、「神さまの導きによって、洗礼を受ける」と言います。私たちが何か行動を起こしたり、行動を起こす決心した時でも、実はそこには神さまの働きがあるのだ、という風に捉えることを私たちは大切にしています。
もちろん、私たちはその導きに強制的に引きずられているわけではありません。私たちは人生において常に選択をしながら生きています。人生の旅路のあらゆる地点でいくつかの選択肢の中から自分が進む道を選びます。その中に主が私たちのために用意してくださっている道も含まれているわけです。ですから、私たちは主の導きを拒否する、そのような自由をも与えられています。
今日の福音書で、イエスが弟子たちに人々がイエスのことをどのように言っているか、と尋ねる場面がありました。続けてイエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だというのか」と聞き、それに対してペトロは「神からのメシアです」と答えました。ペトロは正しい回答をしたわけですが、この答えもペトロが自分だけの力・信仰だけで答えたわけではありません。イエスの数多くの業と祈りによって導かれた答えでした。ですから、ペトロは「あなたはメシアではない」と答えることもできたわけです。そして実際、イエスが捕らえられた直後は、ペトロは「私はイエスなんか知らない」と答えています。あの場面もペトロにとって、彼の人生の大きな選択の場面だったでしょう。
しかし、どの選択肢が主のみ心であるのか、どれがみ心でないのかを私たちは簡単に知ることはできません。私たちにできることは、主が望んでいることを知ろうと祈ることだけです。そして、多くの場合、主が備えてくださる道は人間にとって険しい道であり、困難を伴う道でもあります。人として生きた主イエスは、悩みに悩み、そして弟子たちと人々を覚え愛しながら十字架への道を歩まれました。私たちも悩みましょう。そして神と人とを愛しましょう。キリストに従う旅路を、共に歩みましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年6月16日 三位一体主日・聖霊降臨後第1主日礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第16章12節~15節、イザヤ書 第6章1節~8節)
本日の「三位一体主日」は先週までの聖書的な主日、つまりイエスの歩みに即した主日、ではなく、神学的な意味合いの強い主日です。三位一体の神については、私たちは毎週信仰告白を行っています。ニケヤ信経で「唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます」「世々の先に父から生まれた独り子、主イエス・キリストを信じます」「主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ」と毎週告白をしていますが、それでも「三位一体」とはあまり目を向けることがない言葉かもしれません。
人々は遥か昔から神がどのような存在かを捉えようとしてきました。旧約聖書に登場する神と、新約聖書で語られる神のイメージがどことなく異なるのも無理はないかもしれません。しかし、人々がどれだけ神のあり方や本質を捉えようと努めても、人間が神を完全に理解することは不可能です。でもなんとか、少しだけも、と人々は頭をひねり、議論しあい、時に争いました。
自分の存在が主に愛されている存在か、自分は生きることを許されている存在かを疑いたくなる時があります。しかし、そのような時こそ、主を信じるとき、主の愛を信じるとき、その人が主を信じることができるよう、教会が支えるときです。父と子と聖霊が一つであることを信じるときはないでしょうか。
私たちは、とても長い間、神の本質を知ろうと苦心してきました。それは今を生きる信仰生活を送るわたしたちにとって、とても大きな恵みでした。加えて、私たち自身が神の本質の一部を表す存在であることを知りたいと思います。私たちを創造された主、私たちに代わり罪を贖ってくださった主、今生きる私たちを導いてくださっている主。そのような主に私たちは愛され、導かれ、互いに愛し合うよう生かされています。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年6月9日 聖霊降臨日主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(使徒言行録第2章1節~11節、ヨハネによる福音書代20章19節~23節)
「教会」と訳されるギリシア語「 エクレーシア」は人の集まりを意味します。本来、教会は建物を指すのではなく、イエスを救い主と信じる人々を指します。教会の誕生日と言われる聖霊降臨の出来事は、まだ建物としての教会がなかった時期に起こりました。キリストを信じる人々が一つになって集まっている際に聖霊は降り注いだのです。人々の心は一つとなってキリストに向けられていたでしょう。
神さまは最初の人を形作られたとき、その人を生きる者とするために、鼻から息を吹きかけられました。そしてその人は生きる者となりました。教会の始まりも同じです。心を一つに、キリストに向けていた人々に神さまが息を吹きかけた。つまり聖霊を吹きかけられたのでした。そこに教会は生きるものとなったのです。
福音書に目を移してみれば、そこには復活されたイエスさまから息を吹きかけられた弟子たちが描かれています。ヨハネ福音書版の聖霊降臨の出来事です。イエスさまを失い絶望に包まれていた弟子たちは、息を受けて生きる者となりました。命を受けたのです。その命は私たちの時代まで受け継がれています。
私たちも最初に造られた人と同じです。私たちは互いに愛し合う・支え合う者として集められ、聖霊によって、キリストの息吹によって真に生きる者とされるのです。私たちも受け継いできた命を多くの人に受け渡しましょう。私たちの教会が毎主日、心を合わせて主を賛美する、その声で溢れているように、全ての人が悲しみや憎しみの声ではなく、賛美の声を発することができますように。私たちも聖霊に導かれましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年6月2日 復活節第7主日礼拝説教より 「一つになる」
(ヨハネによる福音書 第17章20節~26節)
17章は「決断の祈り」や「大祭司の祈り」と呼ばれています。この長い祈りの後、イエスさまは弟子たちとゲッセマネの園へ向かい、そして捕らえられます。まさにイエスさまの決別の時です。その前に、イエスさまは弟子たちのために執りなしの祈りをします。決別の祈りであると同時に、大祭司キリストとしての祈りです。その祈りの最終部分が本日の箇所です。イエスさまは「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってキリストを信じる人々のために、と祈るわけです。イエスさまがこう祈るとき、当時はまだイエスさまのことを知らなかった人々が、そして当時はまだ姿形さえなかった人々のことが覚えられ、イエスさまの祈りに加えられます。十字架と復活の出来事、そして昇天の出来事から二千年が経った今を生きる私たちが、すでにイエスさまによって覚えられ、祈られていたことを私たちは知ります。
「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」という言葉は、イエスさまご自身が「あなたが必要なんだよ」と私たち一人一人に呼びかけている言葉です。
復活されたキリストは天に帰ってしまわれました。しかし、私たちのことをキリストは全く忘れておられない。「私はあなたがたを孤児にはしない」と言われました。そして、約束通り聖霊を送ってくださいました。来週の出来事です。キリストはずっと私たちのことを思ってくださっています。私たちが一つになれるように。誰も、孤独な状態で置かれないように。「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」というキリストの心を覚えて、この一週間を共に過ごしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)