2025年2月23日 顕現後第7主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 6章27~38節)
イエスの教えを聴くため、またイエスに癒やしてもらうために病気の人が集まり、汚れた霊に悩まされていた人々が集まってきた。そのような場面でイエスが教えたことの続きです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」とイエスは言うのです。
イエスの許に集まった人々、イエスの教えを欲していた人々や病を癒やして欲しいと願っていた人々は、人々から悪口を言われ、侮辱され、殴られ、奪われていました。その相手に対して祝福を祈り、もう片方の頬を向け、取り返さない、そのようにしなさい、とイエスは言います。祝福を祈るとは、相手に神が共にいるよう祈るということです。もう片方の頬を向けるとは、殴られていないほうの頬を相手に突き出すことです。そこには虐げてくる相手よりも一段高い場所に立つ、虐げられる人の姿が描かれています。奪う者、つまり求めるものに与える姿などは、気前のよい人物の姿です。どうやらイエスが群衆に伝えようとしていたことは、虐げられてもただ我慢しなさいということではなく、もっと積極的な意味があるようです。
人々から悪口を言われ、侮辱され、殴られ、奪われる姿はイエスが十字架に架けられる直前にまた十字架上で、イエス自身が受けた仕打ちでもあります。そして、十字架に付けられたイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と自身を迫害した人々を覚えて神に祈ったのでした。自分を=イエスを侮辱し殴り奪い殺す彼らは「自分が何をしているのか知らないのです」と言います。「自分が何をしているのか知らないのです」との一言には、「あなたたちがしてきたことは間違っているのだよ。神の意に反しているのだよ」との強いメッセージが込められています。「そのことに気づきなさいよ」との願いが込められています。それは、神のみ心=神が私たち人間に対して願っている生き方へと立ち返りなさいよ、とのメッセージです。自分を十字架につけるほどにまで、自分に敵対している人たちへの愛、つまり敵対するひとたちを大切に思うがゆえの一言でした。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㊴
先主日、大阪城南キリスト教会で松山龍二司祭の逝去記念式と偲ぶ会が開催されました。主催者の予想以上の方々が、松山司祭を偲ぶために集まられたようです。当教会では教会委員会が開かれていたため、教会委員会関係者は出席することができませんでしたが、松山司祭を覚えて心を合わせたいと思います。
松山司祭といえば、長くプール学院中高の校長をされていたことや、大阪城南キリスト教会牧師を担っておられたことが思い浮かびます。加えて、超教派の活動である生野地域活動協議会の礎を築いたお一人でもあります。
1972年に松山司祭をはじめ、カトリック、大韓基督教会、日本基督教団の教役者が中心となり生野地区協会連絡会が結成されました。区民クリスマスや世界一致祈祷会を開催していくなかで、1977年に生野地域活動協議会へと成長していきます。
その働きは今も形を変えて引き継がれています。この2月24日、生野地域活動協議会とNPO法人IKUNO・多文化フラットの共催で「多文化で楽しむ!伝統ゲーム大会」が開催されます。場所は、御幸森小学校跡地を活用して2023年にスタートした「いくのパーク」。多文化共生と地域活性を目的としたNPO(IKUNO・多文化フラット)と企業の共同事業体です。
地域に住む多様なルーツを持つ子どもたちに、ベトナム、ネパール、韓国・朝鮮、日本の伝統ゲームを楽しんでもらいながら交流を深めることを目的として開催されます。
聖愛教会一階のソファー前ホワイトボードに案内を掲載していますので、ぜひご覧下さい。そして、ご都合よければぜひ「いくのパーク」へ足をお運びください。ゲーム大会だけでなく、いくのパークには美味しいごはんが食べられるレストランも入っています。
(司祭ヨハネ古澤)
2025年2月9日 顕現後第5主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 5章1~11節)
小舟の上から多くの人々に向かって語る主イエスの横にペトロはいました。主イエスの話を偶然耳にしていたペトロは、主イエスの話と多くの魚が捕れた出来事が結びついたのでしょう。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とペトロは告白します。福音書に出てくる「罪」という言葉の全てが、悪事を働いたことに繋がる罪を指すわけではなく、その多くは「自分が神に愛されていると信じられない状態」や「イエスをキリストとして認められない状態」を指します。特に聖書の時代、今日の物語の主人公である漁師たちも、律法を守ることが不可能な職業であるがゆえに「神の救いから外れた存在」と考えられていました。漁をすれば律法で汚れた生きものとされる、鱗のない魚に触れることも多々あったでしょう。魚を市場に卸すため、魚を捌けば血に触れます。それもまた汚れとされました。
それゆえに、ペトロは「自分は神の救いに与れない存在」であると自分自身のことを捉えていたはずです。罪に縛られた状態、つまり「神は私を愛している」との想いに辿り着けない状態です。そのようなペトロたちを主イエスは「いや、あなたをこそ神は愛している、大切に思っている」と伝えるのでした。これは罪の束縛からの解放です。今日の箇所にこのようなイエスとペトロのやり取りは一切書かれていません。それどころか、「私に付いてきなさい」といった招きの言葉もありません。ただ一言、主イエスはペトロに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と告げたことだけが記されています。
しかし、ペトロたちにはこの言葉だけで十分だったのでしょう。主イエスが舟の上で多くの人々に語ったことは、自分たちに向けての言葉であると実感したのでしょう。それは「私をこそ神は愛してくださっている」との確信だったに違いありません。そしてこのペトロが受け取ったメッセージは皆さん一人一人に向けての主イエスからのメッセージなのです。
(司祭ヨハネ古澤)