2019年8月25日 聖霊降臨後第11主日礼拝説教より 於:大阪城南キリスト教会
(ルカによる福音書 第12章56節、ヘブライ人への手紙 第12章12節~13節)
今日の特祷では「主よ、教会は主の助けによってのみ健全に立つことができます」と祈りました。祈りの中や聖書に出てくる「教会」とは建物を指すわけではありません。教会「エクレーシア」はイエスさまを救い主と信じる人々の集まりです。ですから、この特祷で「教会は」というとき、「主よ、私たちは主の助けによってのみ健全に立つことができます」と祈るわけです。
「健全に立つ」とは「救われる」と同義と言えるでしょう。神さまとの正しい関係、これがクリスチャンの「健全」な状態です。福音書では、イエスさまの教えを聞く人々がイエスさまに対して「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と尋ねます。これは私たちもどこかで抱いている疑問ではないでしょうか。この質問に対してイエスさまは「狭い戸口からは入れるように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と答えます。注意したいことは、この質問に対するイエスさまの答えを全て見てみると、どこにも救われる人は「少ない」とも「多い」とも言っていないという点です。神の国に「入ろうとしても入れない人が多い」とは言いますが、これは神さまが「お前は入ってはだめ」というわけではなさそうです。むしろ、入れるか入れないかは私たちにかかっているようです。「家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」とイエスさまは言います。つまり、扉が閉ざされる前に私たちが入ろうとするかどうかなのです。
神の国に入るか入らないか。それは、取りも直さず私たちが健全かどうかにかかっているのでしょう。この健全とは、もちろん神さまとの関係が正常かどうか、そして、私たちは神さまとの関係が正常であれば、つまり神さまに信頼をおいている状態であれば、普段見えないものが見えてくるのではないでしょうか。神の国の入口を感じることができるのでしょう。
神さまへの信頼は、自分の存在が良しとされていることを信じことから始まります。それは、他者の存在への肯定へと繋がっていきます。その広がりが、神の国への入口を照らすのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年8月18日 聖霊降臨後第10主日礼拝説教より
(ルカによる福音書 第12章56節、べブライ人への手紙 第12章12節~13節)
イエスさまの「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」という言葉からは、洗礼者ヨハネの「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」という言葉を思い出しますし、「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」という言葉からは、イエスさまが神殿に献げられた際にシメオンが母マリアに言った「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。— あなた自身も剣で心を刺し貫かれます — 多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」とい言葉を思い出します。イエスさまがなぜ私たちが生きる地上へ来られたのかということが、洗礼者ヨハネやシメオンによって既に語られていました。またそれ以前から、「家族の対立」は終末の訪れ・神の国の到来を示すものとして用いられていました。つまり、イエスさまの語る衝撃的な言葉は神の国到来のために神さまが既に働いておられることを示しています。
神の国がそこまで来ている。そのことを見極めよ、とイエスさまは続けます。「どうして今の時を見分けることを知らないのか」と言います。神の国、つまり神さまが支配される状態です。それはイエスさまの働きから覗うことができるでしょう。当時、病気や障がいを持つがゆえに、また貧しさのゆえに罪人であると見なされていた人たちがいました。その人々は他者から罪人と見られるだけでなく、自身で「私は罪人だから神さまの救いに与かれない」と考えていたことでしょう。しかしイエスさまは、「あなたこそを神さまは愛しておられる」と伝えたのでした。今日の使徒書に「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすくにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」とありますが、この一文は神の国が広がっていくイメージにぴったりでしょう。「私は神さまに愛されている」と信じることによって、自分の足でしっかりと歩んで行くことができる。そして「あの人も神様に愛されている」と認めることによって私も神様の働きに加わっていく。「どうして今の時を見分けることを知らないのか」というイエスさまの一言は、「あなたも神様の働きに加わりなさいよ」という促しでもあるでしょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年8月11日 聖霊降臨後第9主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(創世記 第15章1節~6節、ルカによる福音書 第12章32節~40節)
高齢で、一般的に考えればもう子どもを望むことはできないアブラム。しかし、アブラムは神さまから「空にちりばる星のように、子孫が与えられる」と告げられた。そしてアブラムは「主を信じ」、そのことを神さまは喜ばれた、そのように書かれていました。アブラム自身は高齢の身でありながら子どもは与えられましたが、星のように増えていく子孫を見ることはなかった。でも、それはアブラムにとって何ら不幸なことではなかったわけです。「それは、主がおっしゃることだからかならず起こるのだ。」おそらくこのようにアブラムは考えていたことでしょう。
このアブラムの主に対する態度、これが信仰であると旧約聖書は語ります。そして使徒書では信仰についてとても簡潔に説明されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と。アブラムは子孫を望みました。そしてその望みは主によって果たされると告げられた。星のように増える子孫をアブラムは見ることができませんけども、アブラムはいつかは分からずとも未来に起こるであろう、と見えない事実をすでに確認しているわけです。それが信仰である、と言うのです。
このような物語があります。昔、ある村で神さまに雨を降らせてくださるよう祈ることがありました。その村では長い期間全く雨が降らず、畑の実りが期待できなくなってきたからです。村人たちの命に関わる事態です。ですから村人は大人も子どももみな教会に集まって、雨が与えられるよう神さまにお願いしました。祈りが終わって教会に集まった人々が外に出ると、雨が降ってきました。村人たちは驚き慌てました。慌てている人達に、一人の少年が言いました。「皆、神さまに雨を降らせてくれるようお願いしに来たんでしょう。じゃあ、なぜ傘を持って来なかったの。」と。そしてその少年は傘をさして自分の家へと帰って行ったそうです。
信仰とはただ単に神さまの存在を漠然と信じることではありません。また、自分が願うことについて「叶ったらいいな」と何となく期待することでもありません。アブラムのようにまた、物語の少年のように、「叶うのだ」と確信することです。そこまでの確信を持つことなのですから、自ずと神さまに願うことは、重要なこと・人が生かされるためのことになってきます。そして、私たちはその願いに対する備えをする必要があるのです。信仰には備えがつきものである、このことについて今日の福音書は語っています。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言います。いつ主人が帰って来るか分からないから、いつも迎える備えをしておきなさいと。そのように言います。なぜ私たちはそれほどに備えをする必要があるのか。それは、主が私たちを神の国に招いてくださるから。全ての人が生かされる、そのような状態に私たちはさせてもらえるから。「神の国」というのはそういうことです。神さまの支配する世界。だれの命も軽んじられない世界・状態。私たちの感覚でいうところの、生きていても死んでいても、全ての人の命が大切にされる世界・状態。そのような神の国を私たちは与えられる。だから備えをしてらっしゃい、とイエスさまは言います。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年8月6日 聖霊降臨後第8主日礼拝説教より 於:J’sキャンプ(中高生キャンプ)
(ルカによる福音書 第9章31節)
今日は、イエスさまが数人の弟子たちを連れて祈るため山に登られた際、イエスさまの顔の様子が変わり服が真っ白に輝いた、「変容」の出来事を記念する祝日です。旧約聖書では似た出来事として、神さまと話をしたモーセの顔が輝いたという箇所が読まれました。もし皆の隣にいる子の顔が輝いたらどう感じるでしょうか。最初は何か冗談をしているのかと思うかもしれませんが、その状態が2分3分と続いたら心配になって恐ろしくなるのではないかと思います。イエスさまの様子が変わったとき、その場にいた弟子たちも不安になったことでしょう。加えて、その場にモーセとエリヤが現れてイエスさまと語り合ったと記されています。その内容はイエスさまが「エルサレムで告げようとしておられる最期について」だったのです。この変容の出来事が起こる一週間前、イエスさまはご自分がどのように死ぬかについて弟子たちに話されました。弟子たちはそのことを思い出し、さらに恐ろしく不安になったのではないでしょうか。
人間は命に触れるとき心が揺さぶられます。誰か大切な人が亡くなったとき、私たちの心は悲しくなり、時に怒ります。また新しい命が生まれたとき、私たちの心は喜びますし、「これから無事に育ってくれるだろうか」と不安も感じます。弟子たちもご自身の死について語り合う三人の姿を見て、心が揺さぶられたことでしょう。
ジョー・オダネルという人がいました。アメリカの軍人で、1945年9月に戦後の日本を記録する任務を受けて長崎に上陸し、長崎と広島の記録をした方です。原爆が落とされた惨状を記録したオダネルさんは翌年3月に帰国してから、フィルムとカメラをトランクに入れて二度とトランクを開くまいと決めました。長崎に上陸する前は、憎い敵国日本が降伏したことを心から喜んでいましたが、原爆で破壊された町や苦しむ人々を目の当たりにする中で、日本への憎しみは消え「二度と戦争を起こしてはならず、核を用いてはいけない」という思いに変わりました。オダネルさんは退役後、ホワイトハウスつきのカメラマンを務めますが、7ヶ月間原爆投下後の長脇・広島にいたこともあり体調を崩します。そして徐々に、カメラに収めたことを伝えなければ、証ししなければならないと感じるようになり、1989年にトランクを開けるのでした。
今日は主イエス変容の日であると共に、広島の原爆記念日です。弟子たちは預言者たちの語るイエスさまの最期を通してキリストの命に触れました。日本に生きる私たちにとって、主イエス変容の日は多くの命に触れる日です。そして「二度と戦争を起こしてはならず、核を用いてはいけない」というメッセージを再確認する日でもあるでしょう。
(司祭ヨハネ古澤)