2024年10月27日 諸聖徒日 礼拝説教要旨
(マタイによる福音書 5章1~12節)
教会に連なる私たち、そして今日特に私たちが憶えて祈りを献げている信仰の先人たち。両者には共通点があります。それは「私たちは心の貧しい者である」ということです。このように言うと気分を害される方がいるかもしれません。「心が貧しい」とは「度量が小さい、しみったれている、満たされていない」とネガティブな意味を持ちますから。しかし、主イエスが言う「心の貧しい人びと」とは「度量が小さい、しみったれている」人びとを意味しているわけではありません。「心の貧しい人びと」とは直訳すると「魂が貧乏な人びと」です。「魂が貧乏」というのもなんだかピンとこない言葉ですが、極度の空腹時に食料を求める状態や、どうしても金銭の工面がつかずに思い悩む状態を想像すると、魂が心底何か求めている状態なのだと感じられるかと思います。
福音書には「魂が貧乏な人」が度々描かれます。神の国に入るにはどうすればよいか悩んでいる人や、自分の人生を通して心の渇きに悩む人、自分の娘の病状を思い心から救いを欲している人など、どの人も心の底から神に依り頼んでいます。それが「心の貧しい」とイエスが表現している人びとです。心の底から神に依り頼む人びと、その人びとにこそ天の国=神の国は与えられるのだ、とイエスは言います。そして神に依り頼む人びとがどのような人なのかの説明が続きます。悲しむ人びと、柔和な人びと、義=神の目からみての正しさを求める人びと、心の清い人びと、平和を実現する人びと、正しさを求めるために迫害される人びと。神の国はこのような神に依り頼む人びとのものであるとイエスは言います。
先ほどお名前を読み上げた方々を思い返す時、イエスのいう「心の貧しさ」への心当たりはないでしょうか。「あの人はとても柔和だったな」とか、「正しさを求める人だったな」とか。もちろん「悲しみの中で亡くなっていったな」という方もいるでしょうし、「あの人がいてくれると、その場が平和になるな」ということもあったでしょう。神に依り頼んで生きた先人たちは神の国でキリストと共に生きておられる。そのことを信じます。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㊱
先日、鍼灸マッサージ師会の方お二人とお話しをする機会がありました。今度、仏教とイスラム教そしてキリスト教の死生観を聞く会を開催したいとのことでした。
鍼灸師さんは往診をする機会も多く、その際には数十分から一時間ほどの施術の間、患者さんが話すままにその声に耳を傾けるそうです。患者さんの中には終末期の方もいらっしゃるそうで、容態が急変する直前まで往診をしてマッサージをしながらお話しを伺うそうです。その意味で、その患者さんに関わる医療従事者の中で最も患者さんの想いを知る存在です。
そのような鍼灸師の先生達が最近問題に感じていることは、患者さん本人とそのご家族が、患者さんの死について話し合う機会がほとんどないということでした。いよいよご本人の死が近づいてきたとき、本人も家族も悩み苦しむ姿を鍼灸師の先生達は目の当たりにするとのこと。しかし、患者さん達がまだ存命のときに死の備えについて話し合うことは「縁起でも無い」と家族が拒絶してしまいます。日本社会の中に大きく存在する死への忌避感が結果終末期の患者さんとご家族を悩ませるのだ、と仰います。
そのため、鍼灸師の先生方は地域の方々に少しずつでも死生観について知り考えてもうおうと動きだしました。「死」という文字をあまり表立たせずに、しかし死について想いを馳せる時間を作っていく。「今こそ宗教者の働きが必要です」と鍼灸師の先生方は仰います。誰よりも近くそして長く患者さんの想いを聴いてきた鍼灸師の先生方からの呼びかけです。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年10月13日 聖霊降臨後第21主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 10章17~27節)
主イエスに質問をした人は、主イエスが示した十戒の後半部分に関して「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言います。本当に敬虔な人であると感じます。神さまから受けている祝福が目に見える形で示されると考えられていた当時、その人が敬虔であるからこそ多くの財産を持っていると、主イエスの弟子たちもそのように理解していたでしょう。主イエスが助言として「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。・・・それから、わたしに従いなさい」と告げたとき、その人が悲しみながら立ち去ったのは、自分が受けている神からの祝福を手放すように告げられたと感じたからではないでしょうか。しかし、主イエスは意地悪で財産の放棄をその人に勧めたわけではありません。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とは「イエスは彼をみつめ、深く愛して言った」です。主イエスは心の底から彼を大切に想いその上で助言したのでした。
なぜなら、神さまから永遠の命を受けるために目に見える形での確証など不要だからでしょう。主イエスの弟子たちもまた、目に見える確証なくして人が救いに与ることを不思議に感じたようです。しかし主イエスは言います。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。これほど確実な証拠はないでしょう。このように見れば、主イエスに質問をした人に欠けていたもの、そして私たちが手放してはいけないものがわかります。それは神への信頼、そして互いに愛し合うことです。目には見えなくとも確かにあるもの。全てを失って十字架につけられたかに見えた主イエスが最後まで持ち続けていたものです。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年10月6日 聖霊降臨後第20主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 10章2~9節)
今日の福音書には「離縁について教える」との副題がついています。平たくいえば離婚についての問答が行なわれている箇所です。デリケートなテーマが語られている箇所なのですが、ファリサイ派の人から主イエスへの質問を見ると奇妙な質問であることに気づきます。つまり「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という質問をファリサイ派の人はするわけです。「夫婦の離縁は、律法に適っているでしょうか」ではなく、夫が妻を一方的に離縁することは律法に適っているか、との問いなのです。それに対して主イエスは「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と夫婦がどうであるか、との視点からファリサイ派の人へ返答しています。
イエスは、神さまが人を作られたそのときまで遡って結婚を捉えます。主イエスが引用したのは創世記の2章最後の箇所であり、今日の旧約日課です。聖婚式で読まれる箇所でもあります。主イエスが引用した箇所の少し前では、神さまが最初に造った人のあばら骨からもう一人お造りになる箇所が記されています。もう一人の人をつくる動機を神はこのように語っています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」。
「彼に合う助ける者」、この「助ける者」とは「最初の人をサポートする人」「支援する人」という意味合いではなく、救済としての助けを意味します。崖から落ちそうな人の腕を持って引き上げる、そのような意味合いの「助ける」です。単独行動で生きて行く動物もいる中で、神さまは人間を互いの関係性の中で生きる存在としてお造りになった。最初に作られた人を救済するために、神さまはもう一人お造りになったわけですから、最初に造られた人は独りでいるために命の危機に直面していたのかもしれません。イエスが「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」というのは、夫が妻を一方的に離縁することへの批判であったわけです。そして主イエスは、私たち人がなぜ作られたかということに私たちの意識を向けさせるのです。
(司祭ヨハネ古澤)