2024年9月29日 聖霊降臨後第19主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書 9章38~43、45、47~48節)
弟子のヨハネが主イエスに報告した言葉、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」を見るとき、弟子たちは主イエスの話を理解していないのだなと感じます。なぜなら、彼らは主イエスから「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われたばかりなのですから。翻って自分はどうなのかと問われると弱いのですが、つくづく人間は忘れやすい存在だなと感じます。
その人が自分たちに従わないから悪霊を追い出すのをやめさせるとは、癒やしの業を主イエスの弟子である自分たちだけのものにしようとすることです。つまり「主イエスの弟子」という標章がないと主イエスの名前を用いてはいけないと、勝手にルール作りをすることでした。また、「全ての労働を休んで神さまを礼拝する日である安息日でも、神さまは私たちを救うために働いておられるよ」と教えた、主イエスの言葉に反することでもあったでしょう。いつも私たちに心を向けて下さっている神さまの働きを勝手に囲い込もうとしているわけですから。
弟子たちは自分たちを中心に人びとに接しようとしていたようです。しかし、主イエスが求めておられるのは神さまを中心とした接し方でした。そして神さまは私たち人間を中心に置いて心を寄せて働いてくださっています。ある安息日、主イエスは人びとに「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ5:17)と言います。それほどに神さまは私たち一人一人を大切にしてくださっている。そうであるならば、私たちに求められている神さま中心の生き方とは、目の前にいる人に心を寄せて生きるよう努めることと言えるでしょう。「み言葉の礼拝」での派遣唱の一つ、「神と人ととに仕えるために行きましょう」とある通りです。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉟
釜ヶ崎のふるさとの家(カトリックのフランシスコ会の施設)では月に一度誕生会が開かれます。コロナ禍後に大分縮小されましたが、誕生会はゲームをしてお菓子やタバコなどの景品が貰えることもあり、利用者のおじさん・おばさんたちに人気のプログラムです。ボランティアにジャンケンで勝つと景品がもらえるゲームでは(ボランティアに勝つまでジャンケンができるのですが)、景品をもらうときおじさんたちは「ありがとうございます」とボランティアにお礼を言ってくれるます。
ある日の誕生会で、ボランティアにお礼を口にするおじさんたちを見て施設長がこう言いました。「みんな私らにお礼言うてくれてるけど、ほんまに感謝せなあかんのは、このお菓子とか送ってくれた人へやからな」と。お菓子やタバコを景品としておじさんたちに手渡しているのは、ボランティアや職員です。しかし、その品物を「利用者のために」と送り届けてくれている人がいる。その人たちの姿は見えないけども、本当に感謝しなければならないのは、その人たちに対してだ、というわけです。そして、施設長のこの言葉はボランティアとして前面に出ている私に対する言葉でもありました。利用者のおじさんたちに直接お礼の言葉を受けていると、自分が何か良いことをしているように感じます。しかし、「あんたはただ送られてきている物を渡してるだけやねんで。勘違いしたらあかんで」というわけです。
「すべての物は主の賜物。私たちは主から受けて主に献げたのです」を想い起こす出来事でした。私たちが手にしている物の全ては神さまからの預かり物です。心に留めたいと思います。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年9月8日 聖霊降臨後第16主日 礼拝説教要旨
(イザヤ書35章4~7 a節)
ルカによる福音書10章30節には、盗賊に襲われた旅人をサマリア人が介抱する譬えを主イエスが語ります。ここで触れられているように聖書の時代の旅は命がけだったようです。盗賊に襲われることもあれば獣や毒虫に襲われることも、悪天候に遭遇することもあったはずです。手持ちの水がなくなってもすぐに水を補給することなどできません。水場が見つからないと命に関わります。
本日の旧約日課であるイザヤ書(35章4~7 a節)には、救いのときには「熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる」と記されています。つまり旅人にとっての危険が消え去り旅人は安心して旅を続けることができる、このような状態が救いのときであるとイザヤは預言します。そして救いの時は「見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」「歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」と言います。
このイザヤの預言は主イエスによって実際のこととされました。「耳が聞こえず舌の回らない人」の「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるように」なったのです。主イエスの時代にあって耳が聞こえず話せなかったこの人は、何らかの罪を犯したためそのようになったと見られていたことでしょう。人生の旅路を歩むことが困難な状態に置かれていたことでしょう。主イエスはその人が自分の人生を歩めるように、その人を束縛するものから解放したのでした。それは魔術によってではなく、神の子である主イエスがもつ権威によって、「開け」という命令によってなされました。私たちが神さまから贈られた生を全うできるように、との主イエスの想いを受けとめましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年9月1日 聖霊降臨後第15主日 礼拝説教要旨
(マルコによる福音書7章1~8、14~15、21~23節)
「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」との言葉は、私の在り方が私から良い物を出すか悪い物を出すかを決めるということであり、私たちがどのように生きるのかを問う言葉とも言えます。
聖書を開いてみますと「人の中から出て来るものが、人を汚す」と確かに感じられる物語が散見されます。旧約聖書の創世記という書物には、最初につくられた人であるアダムが、神さまとの約束を破り食べてはいけないと言われていた木になった実を食べてしまう物語があります。そのことが神さまに知られてしまいますが、そのときアダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と言い訳をします。「あの女が悪いのだ」と言い訳をしますし、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」との一言からは「神さま、あなたの責任ですよ」と神さまに責任転嫁しようとする意図も見え隠れします。自分の隣にいるエバのことは微塵も考えずに、自分のことだけを考え何とか責任を逃れようとする姿がそこにはあります。他にも、自分のことだけを考えて自分の欲を満たすことを優先した結果、他者の命を奪うことになる物語など、「人の中から出て来るものが、人を汚す」例を私たちは聖書に見ることができます。
私たち人間が持つ悪い部分が見えてしまうわけですが、神さまはそのような私たち人間を見捨てることなくずっと導いてくださいます。私たちに対する主の深い愛を知ります。その愛に応えて私たち人生の旅路を歩むことができますように。
(司祭ヨハネ古澤)