2019年7月28日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教より 「祈りと赦し」
(ルカによる福音書 第11章4節、13節)
主の祈りの三つ目、私たちは罪の赦しを願います。直訳するとこうなります。「私たちの罪を赦してください。そして、私たちは私たちに対して負債のある全ての人を赦します」と。
「赦し」、福音の中心とも言えるものです。イエスさまは当時、罪人とみなされていた人々を訪れ、「あなたの罪は赦された」と宣言しました。彼らは、当時の考え方から自他共に罪人とされた人々でした。つまり、他者から「お前は罪人だ」と言われていただけでなく、その人自身も「私は罪人だから、神は救ってくださらないだろう」と信じていました。ですから、イエスさまの「あなたの罪は赦された」という宣言は、神の救いに与かれないという絶望からその人を解き放ち、救いの中へと一気に招き入れたことでしょう。
「私たちの罪を赦してください。そして、私たちは私たちに対して負債のある全ての人を赦します」という祈り。これを「赦しの同時性」と表現した司祭さんがいます。この赦しの一節は、時に神さまと取引をしているようだ、と言われますが、そうではない。そうではなく、私たちが誰かを赦すとき、自分が許されていることに気づく。そのように言います。赦されていることを実感するのです。
赦しは、時に人をいわれのない束縛から解放するものであり、時に怒りによる魂の死から自分を解放するものでもあります。そしてなにより、キリストが私たちに与えてくださったものです。福音の根本です。そして、他者を赦すとき自分がすでに赦された存在であることを知ります。神の働きに触れます。
もしかすると、一番の困難は自分を赦すことかもしれません。誰かを傷つけてしまった。人生こんなはずじゃなかった。理想とする自分の姿と今の自分はかけ離れている。自分を赦すこともまた、神に創られた自分を良しとすること。神の働きに触れることです。
しかしそれは、時に厳しい道程です。祈り無しには、神の支え無しには歩むことは出来ないでしょう。祈りは私たちがどのように生きるかを神との対話から見出していく作業と言えます。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」という言葉が示すように、主の導きを求めましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年7月21日 聖霊降臨後第6主日礼拝説教より 「私に必要なこと」
(ルカによる福音書 第10章41節~42節)
イエスさまを迎えたマルタは、彼をもてなすために独り忙しく働きました。「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが」とありますが、「立ち働く」とは「給仕する・奉仕する」という言葉が使われています。つまり、イエスさまがくつろげるよう食卓を整えていたのでしょう。今日の旧約聖書、創世記ではサラが料理を作り、アブラハムが二人の旅人の給仕を務めました。ユダヤ社会にはもてなしの文化があります。旅人が近くを通ったら精一杯もてなす。それは家族ぐるみでの仕事だったようです。
いずれにせよ、アブラハムとサラは二人で何とか客人をもてなすことができました。それを考えれば、マルタが独りでイエスさまをもてなすのは大変だったと思います。姉妹のマリアはといえば、イエスさまの話を独りゆったりと聞いている訳ですから、マルタとしては面白くないのは当然でしょう。
しかし、不平をもらすマルタに対してイエスさまは言います。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」こう言われますと、奉仕することを選んだマルタは間違った選択をしたのか、と感じます。もちろんそういうことではありません。
本田神父はこう訳します。「マルタ、マルタ、あなたはあれこれ気づかい、心配してくれている。必要なことは、人それぞれだよ。マリアは自分にいいほうを選んだのだ。それを取り上げてはならない。」つまり、マリアはイエスさまの話を聞くことを必要としていました。一方、マルタはイエスさまがくつろげているか心配だから料理から給仕までこなす、その働きがマルタには必要だった。もしかしたら、色々な心配りをしているその奥ではイエスさまの話を必要としていたのかもしれません。だからこそ、マリアのことが気になったのでしょう。
一つの見方をすれば、マリアは自分にとって必要なことに素直でした。このようなマリアを社会は「お客の世話をせず、すべてマルタに押しつけている」と見るでしょう。しかし、イエスさまの許ではそれが良しとされるのです。もちろんマルタの選択が間違っているとイエスさまは言いません。それはとても大切な働きです。しかし、「色々な心の声の中から、自分が本当に必要としているものを見つけなさい」とイエスさまはマルタに助言しているのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年7月7日 聖霊降臨後第4主日礼拝説教より 「神の国と癒やし」
(ルカによる福音書 第10章1節~12節、ガラテヤの信徒への手紙 第6章14節~18節)
今日の福音書を見てみますと、主イエスは「福音」というどこかつかみ所のない言葉を実に具体的に表現しています。「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」というのです。この「病人をいやす」ことと「神の国が近づいた」という宣言は、9章の「12人の弟子派遣物語」でも言われていることです。「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり」とあります。私たちは、「神の国が近づいた」と人々に伝え、そして人々を癒すために主に呼び集められ、遣わされているのです。
神の国が近づいた、という宣言。そして癒しの業。これは別々の事柄ではありません。「神の国」というのは、神が直接支配されている状態です。それは、全ての人が自分自身として生きることができる状態であり、そのために人は癒される必要がある。自分が生きていることの意味を実感できる状態です。それが癒された状態であり、神の支配された状態です。その実現のために、12人はイエスによって多くの町に遣わされ、今私たちはそれぞれの生活の場に主イエスによって遣わされているわけです。
私たちは福音を耳にしたことがないかもしれませんが、福音の具体的な形に触れたことはあるのではないでしょうか。癒された経験、「もうだめだ」と心底感じていた時にふと支えられた経験。それもまた、神の支配の断片であるはずです。
神の支配の断片・神の癒やしの業に触れた私たちは、その力の大きさを知っています。弟子たちもその恵みの大きさに驚きました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と言います。だからこそ主イエスは弟子たちに、そして私たちに釘を刺しました。「しかし、悪霊があなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むし、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言います。主イエスの弟子たちに対する釘の言葉は、今の教会に対しての注意でもあります。私たちは教会の信徒数が増えれば「伝道の成果だ」と喜び、信徒数が減れば「伝道の努力が実らない」と落胆します。どちらも「自分たちの力量」が数に反映されていると見ています。しかし「自分たち」を中心に見てしまうと神の存在は抜け落ち、主イエスが私たちに託された使命、「神の国が近づいた」という宣言と神の国の具体的な形である癒やしが抜け落ちる可能性が大きい。イエスはこのことをよくご存じだったのでしょう。
「神の国が近づいた」、つまり「神の支配はあなたのすぐそばにある」というこの宣言は、「神の癒やしの業は今、あなたに訪れている」と言い換えることができます。私たちに主が与えられた使命はとても厳しい、しかし、とても恵みに溢れたものです。
(司祭ヨハネ古澤)