2023年10月29日 諸聖徒日・逝去者記念礼拝説教より
(ルカによる福音書 第6章20~26節)
本日は逝去者記念礼拝です。信仰の先達、また私たちより先に召された家族に思いを馳せ、聖愛教会に連なる全ての人を憶えて祈りを献げます。逝去者名簿を見てみますと418人のお名前が記されています。418通りの人生があるわけで、そのことを想像するとこの逝去者名簿がさらに重みを増すような感じがいたします。長い人生を歩んだ方もいれば、短い旅路だった方もいらっしゃいます。戦中大変な時代を生き抜いた方、経済成長期に働きづめだった方。このような人生があったのではないかな、と想像し出すときりがありません。しかし、この418人の方々がそれぞれ人生の旅路を終えて、神さまのみ許に行かれたことは確かなことです。それは、一人ひとりが神さまから与えられた命を生きた証しでもあります。私たちはこの証しを憶えつづけます。
主イエスは「貧しい人びとは、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)と言い、「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」(ルカ6:24)と言います。貧しい人は幸いで富裕な人は不幸、なぜでしょうか。当時、富裕であることはその人が神さまの祝福を受けている証しであると認識されていました。逆に、貧しい人は神さまから見放されていることの証左だと捉えられていたわけです。しかし、主イエスは貧しい人こそ神の国に先に入るのだ、神から見放されている人などいないのだ、と言います。この主イエスの言葉は、神の国に最優先で入れると考えていたのに後回しにされてしまう、富んでいる人にとっては不幸(可哀そう)なことだったでしょう。神さまの公正さがよく分かると同時に、全ての人を大切になさる方だと分かります。この神の愛をも憶え続けたいですね。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉑
「真実と想像力」
「真実」という言葉があります。仏教用語としては「あるがままであること」や「絶対の真理」を指すようですが、普段用いるときは「うそいつわりでない、本当のこと」として用いています。その意味で、ある漫画の主人公の名探偵は「真実はいつも一つ」と言います。しかし、昨年ドラマでヒットした「ミステリと言う勿れ」(原作は田村由美の同名漫画)の主人公、久能整(くのう・ととのう)は「事実は一つ」だが「真実は一つではない」と言います。どういうことでしょうか。
久能整はこだわりが強く博識で心理学を専攻する大学生です。ドラマでも原作でも第1話で、ある事件の犯人に仕立て上げられてしまい、警察で取り調べを受けます。上述の台詞はその際に出てきます。
その意味を説明するために主人公はある例を用います。Aさんが階段を下から昇ってきます。Bさんは逆に降りてきます。階段の途中でAさんとBさんの肩がぶつかり、Aさんは階段を転げ落ちてしまった。Bさんはたまたま肩がぶつかってしまっただけだと考えるが、AさんはBさんに落とされたと考えるかもしれない。また、その事故を端から見ていたCさんは別の捉え方をする。このように、AさんとBさんの肩がぶつかりAさんが階段を落ちた、という事実は一つだが真実は主観の数だけある、と主人公は語ります。
この考え方が主人公の中心にあるので、物語を通して久能整は様々な視座から物事を見ていきます。そのため主人公はいわゆる「一般常識」に度々切り込んでいきます。この作品がうける理由の一つだと思います。
私たちにとって「絶対の真理」としての真実は「ナザレのイエスは救い主である」が挙げられます。その主イエスも当時のユダヤ社会における一般常識に切り込んでいき、救いの外にあると捉えてられていた人びとに、あなたがたを神は愛されていると告げました。今の社会に主イエスはどのように切り込まれるでしょうか。皆で想像して分かち合いたいなと感じます。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年10月8日 聖霊降臨後第19 主日礼拝説教より
(イザヤ書 第5章1~7節、マタイによる福音書 第21章33~43節)
「先(さき)」という言葉があります。「先に手を洗う」のように、ものごとの優先度を表す他、「先のことを考える」のように未来を指す言葉でもあります。
本日の旧約日課(イザヤ書5章)も福音書(マタイ21:33~)も、ぶどう園にまつわる物語でした。主イエスはおそらくイザヤ書第5章を念頭に今日のたとえを語られたのでしょう。イザヤ書では預言者が「わたしの愛する者」である神さまのなされたことと、神さまの期待に応えない人々について紹介します。主イエスも神の期待を暴力で返す人びとの姿を、家の主人とぶどう園の農夫として物語ります。
二つの物語に共通することは、神さまが人間の「今」のためだけに働かれるわけではない、ということです。今を生きる人のことはもちろん、先の=未来の「いのち」を見据えて働いておられます。対して、物語られる人びとは「今の自分たち」だけに焦点をあてて行動しているようです。自分たちへの優先度を上げた結果、未来としての「先」を失ってしまいます。
そのような、人間が持つエゴを見越しておられたのでしょうか。神さまは「家の主人の息子=主イエス」を復活させられました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と詩編第118編は歌います。福音書の文脈では、神さまは主イエスを教会の基とされた、との意味ですが、神さまが見据えた先はそれに留まらないでしょう。何よりも先に、いのちのために働かれる神さまは、先の先にまで目を向けておられます。それは今を生きる私たちのため、そして私たちの後に続く人たちのためです。私たちも主に続きましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑳
「互いに支え合って」
平日朝、公園のベンチで一杯引っかけている男性の前を親子が通り過ぎた際、その親御さんが子どもに「あの人、朝っぱらからお酒飲んでるわ。だらしないな。こんな大人になったらあかんで」と言うのを聞いた、なんて話があります。でも、その男性は夜中から朝方まで仕事をしていたのでした。言わば寝る前リフレッシュの時だったようです。そういった背景を知ることなく、私たちは相手を「あかんやつ」と分けることが多々あるのかもしれません。
そうであるなら、私たちに必要なものは「おかげさま」という言葉かなと最近思います。「おかげさま」は近江商人が広めた言葉として有名で、人から受けた恩恵や神仏の助けに感謝する言葉です。仏教の色合いが濃い言葉ではあります。しかし、私たちの文脈で言えば「日々キリストに導かれていることへの感謝」を表す言葉であり、「神さまが造られた隣人に支えられて生きていることへの感謝」を表す言葉と言えるかな、と。
祈祷書には様々なお祈りが収められています。その中から「就寝前の祈り」の最後に記されているお祈りをご紹介します。私たちは一人だけで生きているのではなく、互いに支え合っていることを思い起こすお祈りです。「確かなみ摂理により、わたしたちの生きるこの世界とその生活を支えてくださる神よ、どうか夜も働く人を守り、苦しみ悩む人を慰め、病気の人を強め、死に臨む人に祝福を与えてください。そして私たちの生活が、互いの力によって担われていることを、深く心に刻むことができますように、主イエスキリストによってお願いいたします。アーメン」。
(司祭ヨハネ古澤)