2019年5月26日 復活節第6主日礼拝説教より 「主イエスを想い起す」 於:大阪城南キリスト教会
(ヨハネによる福音書 第13章31節~35節)
聖書で語られる平和とは、キリストによって人間にもたらされる救いの事態全体です。単に戦争のない状態・争いのない状態を指すわけではありません。戦争がなくてもある人がその人自身の存在の危機を感じているのであれば、それは平和とは言いません。そのようなほつれのある布の状態は全体的に見て、聖書のいう平和ではないわけです。しかし、矛盾を感じられるかもしれませんが、一見平和とはほど遠いようであっても平和な状態があります。それは、主イエスの力強い支えがあるとき、その支えを感じたときです。
困難なときにも主イエスへの信頼を寄せるということは可能なのでしょうか。これについて私たちは、大きな困難の中で神への信頼を失わなかった、尚且つ他者への愛を持ち続けた人物を知っています。主イエスその人です。
群衆をはじめ、弟子たちにも見捨てられ究極の孤独に置かれた主イエス。しかし、その状態で最後まで神に信頼を寄せ、十字架に架けられた状態で本当の罪人に救いを宣言した人物。その存在を想い起すとき、私たちは救いと勇気を得ます。聖霊が働きかけてくれるとき、私たちは主イエスが救い主であることを想い起すのです。
もちろん困難な状況を良しとしろ、ということではありません。困難の原因がはっきりしている時などではなおさらです。そうではなく、困難の中でも主は共にいて支えてくださる・そのことを実感できる。それが平和であり、平和の中に私たちが置かれるからこそ、他者と共に重荷を背負い合える。守るべきを守り、変えるべきを変えていけるわけです。
私たち一人一人が平和へと導かれる中で、私たちの周囲も平和の只中へと進んで行くことを願い祈りを続けましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年5月19日 復活節第5主日礼拝説教より 「大切にすること、されること」
(ヨハネによる福音書 第13章31節~35節)
主イエスは弟子たちに「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」と言います。「互いに愛し合う」とはどういうことでしょうか。私たちが迎えた復活日、その三日前の夜に主イエスは「愛し合う」ことの意味を、当時の人々にとって、とても身近な方法で示しました。それは足を洗い合うということでした。
当時の人々の習慣では、足を洗うのは奴隷の仕事でした。当時は男尊女卑の社会でしたから、奴隷のいない家庭ではその家の女性が足を洗っていたことでしょう。しかし主イエスは、「仕え合いなさい」というメッセージと共に率先して自分の弟子たちの足を洗い、具体的な方法で愛し合うことの意味を示しました。そこでは、「あの人は自分より偉いから」とか、「あの人は好きだから、嫌いだから」という個人的な想いは退けられます。神さまが「全ての人を愛している」、「大切に想っている」というただ一つの基準があります。「あなたがたも同じようにしなさい」と主イエスは言います。
教会ではこの主イエスが弟子たちの足を洗った出来事を、礼拝の中で行います。今年も行いました。礼拝前に、「足を洗わせてください」というと、大抵の人はもじもじと断ります。それは、自分のあまりきれいではない部分を他者に見せることへの抵抗があるからでしょう。しかし、主イエスは大切にし合うことを望みます。誰かに何かをしてあげる、寄り添ってあげる、だけでなく、誰かから何かをしてもらうことをも望みます。
私たちが誰かを大切にするとき、それは私たち一人一人が神さまにとって大切な存在であることを想い起すことでもあります。互いに愛し合いましょう。そして、差し出された愛を受け取りましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年5月12日 復活節第4主日礼拝説教より 「耳をすませば」 (於:聖ガブリエル教会)
(ヨハネによる福音書 第21章1節~14節)
主イエスは言います、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」 つまり、「あなたたちは私の羊ではない」と言います。換言すれば、「あなたたちは救いに与る存在ではない」ということですよね。中々厳しい言葉です。全ての人が救われるのではなかったのですか、と問いたくなる言葉でもあります。しかしだからこそ、私たち人間からすれば長い年月をかけて、多くの人が救いに与かり、福音を伝える・宣教に加わることができるよう私たち一人一人を導いてくださっているのではないでしょうか。クリスチャンになることが絶対ではありません。様々な文化・習慣がありますから、他の宗教がその人の救いの道かもしれない。「クリスチャンにする」ということではなく、全ての人が人生を肯定できる、そのような働きを私たちに求めているのでしょう。
主イエスは、救いを求める私たちが主人の声を聞き分ける羊のようになることを求めています。羊はとても臆病です。そして群れてないと生活できない動物だそうですね。一頭が走り出すと、他の羊も走り出す。なぜ自分が走っているのか理解していないにもかかわらずです。しかし、羊飼いの声はしっかりと覚えている。羊飼いが呼べばその許へと移動する。従順な動物なのですね。そのような私たちを主イエスは見分けてくださる。十把一絡げには扱わない。だからこそ、その人が本当に必要なことをご存知です。そして、主イエスはトップダウンで物事を行われない。これは先週のパウロとアナニアの物語をみればよく分かりますよね。主の声を知る一人一人が導かれ、私たちは互いに支え合う存在となっていく。その結果、多くの人が主イエスの声を聴き、主を信じる者へと変えられるわけです。だからこそ、私たちは耳をすまして、主の声を聞き続けます。それは取りも直さず、出会う一人一人の声に耳を傾けることにほかなりません。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年5月5日 復活節第3主日礼拝説教より 「復活と導き」
(ヨハネによる福音書 第21章1節~14節)
今日の福音書、イエスの弟子たちの物語は神の導き・キリストの導きというものを分かりやすく示しています。
ペトロもヨハネもゼベダイの子ども達もプロの漁師でした。その彼らが一晩かけても魚が捕れなかったわけです。岸辺からどこの誰ともわからない人に「舟の右側に網を打ちなさい。それすればとれるはずだ。」と言われて、プロの漁師たちはどう思うでしょうか。多くの場合は「素人が何言うとんねん」と思うのではないでしょうか。しかし弟子たちはその声に従いました。渋々だったのか、それとも謙虚に従ったのかは書かれていません。彼らの心の内はわかりませんが、従ったのでした。その結果、多くの魚が捕れました。そして声の主が復活のイエスであるとわかった。弟子たちは大きな祝福に触れたのでした。いえ、大きな祝福に気づいたのでした。
弟子たちが誰のものかわからない声に従うことができたのは、彼らがキリストの十字架と復活の出来事を経験していたからだと思います。だからこそ、弟子たちはプロの漁師としてのプライドを脇に置くことができたのではないでしょうか。自分たちより遥かに大きい存在・出来事があることを経験で知っていたからこそ、声を受け入れることができたわけです。
ヨハネの「主だ」という気づきがなければ、他の弟子たちは声の主の正体を知ることはできませんでしたし、ペトロが「漁にいく」と決心しなければ、導かれることもなかったでしょう。私たちがキリストの木にしっかりと繋がっているとき、主の導きは真に導きとなります。また、その人にとって導きとは思えなかったものが導きになるのです。
(司祭ヨハネ古澤)